自由とは何だろうかと時々考える。こうして歩けることは一つの自由なのだろうか。しかし私が歩いているのは一種の義務に過ぎない。なぜなら私は食事を運ばなければならないからだ。あの人にこの湯気を立てる食事を差し出して、食べきるのを待たなければならない。私の仕事であるからだ。つまり歩くことは仕事であり、なかば強制されていることである。
だがしかし、自由に動くという意味では、やはり歩くことは自由なのだろう。分からない。ぐるぐる回って一周してしまう。だから私は考えるのを止める。ありとあらゆる思考を止め、ただ体を動かすことに専念する。そうすると不思議と何も感じなくなるのだ。責任感や、罪悪感さえ。
おかしなことだ、私が罪悪感を抱く理由などどこにもないのに。いや、あると言えばあるだろうが、しかしそれは私がしたことではない。私はあくまで、世話をする役を仰せつかっているだけのハウスメイドのようなものだ、あるいはもっと下等な物かもしれない。何せこれくらいの仕事など、ロボットにだって出来るのだから。
部屋は打ちっ放しのコンクリートの壁が寒々しい、灰色をしている。高い位置にある窓から日光が燦々と降り注いでいるが、日差しは部屋の隅に置かれたパイプベッドには当たらない。故にその人は肌が白い。パイプベッドの上で上半身を起こし、じっと私を見ているその人は。
その人はポトフをことさらゆっくり食べる。器の中の煮込まれた野菜をスプーンで器用に二つに割って、小さく口を開いてそれを噛む。私は横でそれを見ている。
その人は何もいらない、と言った。それは物質的な意味でも、精神的な意味でも。
毎晩のように私のご主人様は愛を具体化した行為をその人と交わす。ご主人様は愛しているらしい。だがその人は愛すらいらないという。ただ、この部屋の中で朽ちていきたいという。
だがそれをご主人様は許さない。その人がずっと美しくいられるよう努力している。だから私はその人が、食事を終えるのをじっと待っているのだ。そうでもしなければどんな食事も食べずにやせ衰えて、きっと醜く死んでいくだろう。餓死した人間の醜さは、私も何度か目にしている。
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遠くで雷が鳴っているのが聞こえる。ベッドの中に潜りながらそっと目を開けると、一瞬だけカーテン越しの窓の外が光ったのが分かった。数秒遅れて音がやってくる。どこかで、雷が鳴っている。
耳を澄ますと更に雨が降り出してきたのが分かった。この調子では電車のダイヤは散々なことになるだろうな、とぼんやり考えた。だからといって外に出かける用事はなく、そもそも窓の外は暗い。ブランケットを被り直し、ゆっくり瞬きをしてまた目を閉じた。
雷はさして怖くはない。ただ、暗闇に光るその一瞬が恐ろしい。真っ暗な部屋がほんの数瞬だけ明るく照らされ、深い陰影が目に映る、それがどうしようもなく怖いのだ。
また、瞼の向こう側で光ったのが分かった。
※師匠の監視を見ながら聞きながら。ソルフェジオ+雷雨やばいまじやばい
耳を澄ますと更に雨が降り出してきたのが分かった。この調子では電車のダイヤは散々なことになるだろうな、とぼんやり考えた。だからといって外に出かける用事はなく、そもそも窓の外は暗い。ブランケットを被り直し、ゆっくり瞬きをしてまた目を閉じた。
雷はさして怖くはない。ただ、暗闇に光るその一瞬が恐ろしい。真っ暗な部屋がほんの数瞬だけ明るく照らされ、深い陰影が目に映る、それがどうしようもなく怖いのだ。
また、瞼の向こう側で光ったのが分かった。
※師匠の監視を見ながら聞きながら。ソルフェジオ+雷雨やばいまじやばい
「若いねえ」
カウンターに並べられた数枚の写真をつまみ上げ、夏生は言った。呆れたような感心したような、どちらともとれる声だ。奈々子はそりゃそうでしょう、と返す。三十路を越えてそろそろ中年に向かいつつある男と高校生のどちらが若いかなど、比べるまでもない。
夏生の手から写真を取り上げ、一枚一枚確認しながら二つの山に分けた。人に渡す物と、誰にも見せない、言わば没の山にだ。カメラの扱いには慣れ、ピントが合っていない物や手ぶれを起こしている物は減りつつある。あとは被写体の視線がきちんとこちらを向いているか、あるいは画面のバランスが良いか、それを中心に分けていく。
夏生はその作業を見ながら、時々口を挟む。プロの言うことに間違いはない。奈々子はそれに従って自分の判断を直す。数年間、変わらず続けられている作業は長い時間は掛からない。
カウンターに並べられた数枚の写真をつまみ上げ、夏生は言った。呆れたような感心したような、どちらともとれる声だ。奈々子はそりゃそうでしょう、と返す。三十路を越えてそろそろ中年に向かいつつある男と高校生のどちらが若いかなど、比べるまでもない。
夏生の手から写真を取り上げ、一枚一枚確認しながら二つの山に分けた。人に渡す物と、誰にも見せない、言わば没の山にだ。カメラの扱いには慣れ、ピントが合っていない物や手ぶれを起こしている物は減りつつある。あとは被写体の視線がきちんとこちらを向いているか、あるいは画面のバランスが良いか、それを中心に分けていく。
夏生はその作業を見ながら、時々口を挟む。プロの言うことに間違いはない。奈々子はそれに従って自分の判断を直す。数年間、変わらず続けられている作業は長い時間は掛からない。
覗き込んだ目の色に一瞬心を奪われた。暗色の虹彩は近付くと灰色がかっているように見えた。不思議な色だった。
ノイズ、ノイズ、ノイズ。耳に届いた声は雑音混じりでよく聞こえない。相手が何を言おうとしているのか聞き取ろうと全ての神経を耳に集中させる。だけど声は聞こえない。ただ相手の呼吸と、誰とも区別のつかない音の嵐。
息を吸う。息を吐く。そういう営みを無視するかのように灰色の瞳。綺麗だ。ほんとうだ、綺麗だ。くらくらする。眩暈がする。そして頭が痛い。あたしの中をぐるぐると、たくさんのものが渦巻いている。
灰色の目をしたその人は笑う。唇を少しだけ動かして。手にしていた本が滑り落ちて床に落ちた。音は大きかったのに少しも響かなかった。図書室は静かなのにとてもうるさい。雨が降っている。
透明なガラスが濡れている。あたしの眼球の表面を、同じように涙が濡らす。目の前の灰色の目もそうなのかしら。
伸びた爪、細い指、白い手首。手首にぶら下がる銀色の時計がたてる音、本の匂い、雨の気配。頭痛。まるで意識を途切れさせようとするように痛む頭。現実をジャミングしているのです。そっと触れた。それだけだった。踊るような足取り、軽やかなステップ、誰もいない廊下へ。
少しだけ濡れた廊下はステップを踏む度に音高く叫ぶ。あたしも叫びたかった。でもきっと叫んじゃいけない。踊る人達が誰一人として声を上げないように、あたしも声を上げず綺麗に笑っていなきゃいけない。誰がそう決めたかってあたしにも分からないけど。そういうものなんでしょう、だってあたしの周りの人達は、あたしが綺麗でおとなしくて清純で、そういうイメージを勝手に抱いてあたしになにかを期待している。そしてイメージが崩れたら、唾を吐いてさっさと消えてしまうのだ。残るのはぼろぼろになったイメージを必死で直そうとする、醜いあたしだけだ。
だけどあたしだってほんとうは、そんな綺麗なものじゃない。あたしは観賞用の人形じゃない。あたしだって、恋をする。
ノイズ、ノイズ、ノイズ。耳に届いた声は雑音混じりでよく聞こえない。相手が何を言おうとしているのか聞き取ろうと全ての神経を耳に集中させる。だけど声は聞こえない。ただ相手の呼吸と、誰とも区別のつかない音の嵐。
息を吸う。息を吐く。そういう営みを無視するかのように灰色の瞳。綺麗だ。ほんとうだ、綺麗だ。くらくらする。眩暈がする。そして頭が痛い。あたしの中をぐるぐると、たくさんのものが渦巻いている。
灰色の目をしたその人は笑う。唇を少しだけ動かして。手にしていた本が滑り落ちて床に落ちた。音は大きかったのに少しも響かなかった。図書室は静かなのにとてもうるさい。雨が降っている。
透明なガラスが濡れている。あたしの眼球の表面を、同じように涙が濡らす。目の前の灰色の目もそうなのかしら。
伸びた爪、細い指、白い手首。手首にぶら下がる銀色の時計がたてる音、本の匂い、雨の気配。頭痛。まるで意識を途切れさせようとするように痛む頭。現実をジャミングしているのです。そっと触れた。それだけだった。踊るような足取り、軽やかなステップ、誰もいない廊下へ。
少しだけ濡れた廊下はステップを踏む度に音高く叫ぶ。あたしも叫びたかった。でもきっと叫んじゃいけない。踊る人達が誰一人として声を上げないように、あたしも声を上げず綺麗に笑っていなきゃいけない。誰がそう決めたかってあたしにも分からないけど。そういうものなんでしょう、だってあたしの周りの人達は、あたしが綺麗でおとなしくて清純で、そういうイメージを勝手に抱いてあたしになにかを期待している。そしてイメージが崩れたら、唾を吐いてさっさと消えてしまうのだ。残るのはぼろぼろになったイメージを必死で直そうとする、醜いあたしだけだ。
だけどあたしだってほんとうは、そんな綺麗なものじゃない。あたしは観賞用の人形じゃない。あたしだって、恋をする。
彼が学校を辞めたというのを知ったのは、それから数ヶ月経った後だった。
辞めた理由というのは分からない。成績が特別悪かった訳でもなく、講義を休みがちだった訳でもない。本当に、唐突に、辞めたらしい。
彼を知っている人はたくさんいたけれど、誰一人として彼のその後を知っている人はいなかった。いや、いたのかもしれないけれど、私が言葉を交わした人達の中では誰も知らなかった。顔見知りにしてはよく話し、けれど友人と呼ぶには距離があるような、そういう関係ばかりだった。そしてきっと私もその中の一人なのだろう、彼にとっては。
しばらく心のどこかにぽっかりと穴が空いたようなそんな気分だった。塞ぎ込んではいなかったけれど、彼が座っていたベンチを見る度に泣きたいような気分になった。そのたびに私は目を無理矢理動かして正面を見た。猫はどこにもいなかった。
辞めた理由というのは分からない。成績が特別悪かった訳でもなく、講義を休みがちだった訳でもない。本当に、唐突に、辞めたらしい。
彼を知っている人はたくさんいたけれど、誰一人として彼のその後を知っている人はいなかった。いや、いたのかもしれないけれど、私が言葉を交わした人達の中では誰も知らなかった。顔見知りにしてはよく話し、けれど友人と呼ぶには距離があるような、そういう関係ばかりだった。そしてきっと私もその中の一人なのだろう、彼にとっては。
しばらく心のどこかにぽっかりと穴が空いたようなそんな気分だった。塞ぎ込んではいなかったけれど、彼が座っていたベンチを見る度に泣きたいような気分になった。そのたびに私は目を無理矢理動かして正面を見た。猫はどこにもいなかった。