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Bernadette
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藤は空孤で朝陽横丁に住んでいる教師です。ビー玉を大事にしています。馬頭鬼とは相棒です。
菖蒲は天狗で桜小路に住んでいる郵便配達人です。鏡を大事にしています。鳴家とは師弟関係です。


 せんせえせんせえと、舌っ足らずな調子で呼ばれたものだから、屋根で日向ぼっこをしていた藤はうっすら目を開けた。
 ばさばさ音がすると思ったら、子供の天狗が宙に浮いているのだった。肩から革の鞄をかけているが、まだ幼い天狗にその鞄は少し大きいように見える。着物の裾から覗く足は華奢だが、大きな目はきらきらと輝きまるで太陽のようだった。
 桜小路の幼い郵便配達人、天狗の菖蒲だった。
「せんせえ、手紙、手紙だよ!」
 藤が目を覚ましたと気付くやいなや、菖蒲は一層大きく羽ばたいた。あいよ、と気の抜けた相槌で答え、藤は四本足をふんばり大きく伸びをした。日向ぼっこをするなら狐の姿と決めているが、しかし配達人であれなんであれ、客が来たならばその姿のままでいるのははばかられる。少し力を込めて狐の姿から人の姿に化ける。藤が突然白髪の男に変わったのを見て、菖蒲は大きな目を更に大きく開いて驚いた。その拍子に羽ばたくことを忘れたか、うわあと間抜けな声を上げて体が傾いだ。
 どうにもまだまだ未熟な天狗は、宙に浮くこともままならないらしい。
「これ菖蒲、無理せんでもよかろうに。怪我をする」
「飛ぶ練習してるんだよ! おれも、すぐ大天狗になるんだ!」
「なんぞ焦る必要がある」
「だって師匠が、早く立派な天狗になれって」
「あの鳴家の言うことなんぞ、気にせんでもよかろ」
 そう言えば、ようやっと元のように浮かんだ菖蒲は鼻にしわを寄せた。だが小さな子供に何か言わせるよりも早く、藤はからかう。
「まずおぬしは、飛ぶことよりも字を書くことを覚えよ」
「むう」
「書けぬが読めるとは言わせんぞ」
「だってせんせえ、おれ、郵便配達人だし」
「今の世、文字の書けぬ天狗なぞおらんわ」
 さきほどまでの溌剌さはどこへやら、菖蒲は情けない声を上げた。からからと笑ってみせれば、反論したいのだと訴えるように大きく羽ばたいた。それでも何も言わないのは、何を言ったところで藤に口では勝てないと思っているからなのだろう。生まれて十年程度しか経っていない天狗と三千年生きた空孤では、どちらが勝つのかは明白だ。事実、菖蒲が藤に勝てたことは一度としてないのだから、口答えしないのは賢明な判断と言えるだろう。
 ひとしきり笑ったところで、藤は菖蒲に手を差し出した。一瞬きょとんとした顔で首を傾げたが、すぐに何のことか思い出したらしい。菖蒲は慌てて革の鞄に手を突っ込み、がさごそがさごそと中身を漁りだした。
 少しして取り出したのは、桜色の封筒だった。
「先生に、手紙!」
「あいよ」
 ずいぶん洒落た封筒だ、と手にしたそれを矯めつ眇めつ眺めてみる。どうやら少女が書いたらしい、宛名の字はかわいらしく、丸っこい物だった。藤が教える字の書き方ではないし、そもそもそんな字を書くような相手から手紙をもらうことなどほとんどない。色と良い雰囲気と良い、まるで恋文のようだ。
「……ふむ。菖蒲よ」
「なあに、先生」
「おぬし、ここがどこか知っておるか」
「朝陽横丁!」
「で、おぬしは字が読めるな」
「うん」
「では聞くぞ。この字はなんと読む」
 ずい、と菖蒲に封筒を差し出せば、小さな天狗は不思議そうな目でそれを見た。大きく瞬きをし、首を傾げ、もう一度目を動かし字を辿り、
「あっ」
 住所を間違えたことにようやく気付いた。
 藤の手から桜色の封筒を受け取った菖蒲は悔しいのか恥ずかしいのか、唇をかみしめぷるぷる震えていた。羽ばたく翼すら震えていたものだから、藤は思わず笑い、朗らかに言い放つ。
「明後日はまず、字の読みから始めるかのう」
 そんなのやだあ、と半ば泣きそうな声を上げ、菖蒲は羽ばたくのを止めて屋根に降り立った。どうやら翼が震えていたのは羞恥やら何やらではなく、羽ばたき続けて疲れただけだったらしい。その証拠に、手紙を一度鞄にしまった菖蒲は疲れたように屋根に手と膝をついた。それにもう一度笑うと、恨めしげな目で睨まれた。
 しかしその程度で怯むような藤ではない。愉快愉快とその頭をぐしゃぐしゃと撫で、朝陽横丁の北を、手紙の本来の住所の方を差す。
「ただの冗談よ、気にするでない。ほれ、いい加減立ち上がらんか」
 恋文はさっさと届けてやるに限る。そう嘯けば、まだ恋を知らない天狗は首を傾げたが、藤はただ笑んで手で促した。
「また明後日な」
「……うん」
「次は間違えるでないぞ」
「まちがえないよ! ばかにすんな!」
 未熟なわりには反骨精神猛々しい小天狗はそう言うと、勢いよく飛び上がった。それでも暴言を吐くなり舌を出して反抗するなりしないのだから、根は素直な子供なのだった。一度振り返って手を振ると、菖蒲はぎこちなく両翼をはためかせ、北の方へ飛んでいく。その姿を見送って、藤はまた狐の姿に戻って屋根に丸まった。
 なにせ、太陽が燦々と降り注ぐ小春日和なのだ。もうしばらく日向ぼっこをしていても、誰も文句は言うまい。
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 脱いだ白衣をハンガーに掛け、ロッカーの中に吊り下げる。それと入れ替わりにスーツのジャケットを取り出し羽織った。およそ12時間ぶりに袖を通したジャケットはひやりと冷たい。だが自分の体に馴染むそれは、イツキにわずかな安堵をもたらした。
 ロッカーの扉を閉め、鍵をかける。鍵を仕舞うついでに足下に置いた鞄に財布があるのを確認し、携帯電話はスーツのポケットに突っ込んだ。そこで初めて、自分が身分証明証の入ったケースをぶら下げていることに気付き慌てて外す。紐をくるくると巻き付け、それも鞄の中に放り込んだ。無意味にスーツの表面を撫で、軽く叩き、そうしてようやく帰る準備は完了する。
 たった一人しかいなかった男子更衣室を出て、配属された研究室に少しだけ顔を出し、先に帰る旨を告げた。とはいえとうに一般的な退勤時間は過ぎている。それでも研究室では白衣を着た同僚たちが忙しげに仕事を続けていた。この職場に来て一ヶ月以上経つが、退勤時間というものがここではただのお飾りだということは身を持って知っている。研究熱心だというよりも、渡される仕事の数と研究員の数が釣り合わないが故の現状だ。その中で一人悠々と帰宅するのは気が引けたが、しかしイツキが残ったところで出来る仕事は今はない。声をかけてきた数人に一言二言返し、イツキは研究室を出た。
「ああ、遠野。明日、もしかしたら分析頼むかもしれないからよろしく頼む」
「分かりました。……捜査課から預かった、とおっしゃっていた薬ですか」
「そうだ。発狂を抑えるという触れ込みのな」
 去り際、事も無げにイツキに言葉を投げてよこした上司は、皮肉気に唇の端を歪めていた。あるいはイツキもそんな表情をしたかもしれない。鞄を持たない手で、無意味に自分の髪の毛を掻き回した。存在し得ない薬を売る側も買う側も、等しく哀れに思えたのだ。


 大学から大学院を経て、そのまま大学の研究所に身を置いたイツキが、警視庁異能研究課に所属したのはごく最近のことだ。実のことを言えば、イツキにも何故こうなったのか詳しくは説明できない。そもそも警視庁異能研究課は、世間的には存在しないことになっている組織だ。そんな組織に所属するにあたりイツキも準備や片づけに追われ、気付けば異能研究課に足を踏み入れていた、という有様である。ごくごく一般的な研究所から研究員が引き抜かれるのは異常なことだとさすがのイツキにでも分かるが、そこには何か事情があったのだろう。そしてその事情の中に、イツキが異能者であるということも含まれているに違いない。
 今も意識すれば、隣のサラリーマンから漂うアルコール臭を明後日の方向に向けることが出来るのだろう。風の流れを操る異能を持っていると気付いたのは、およそ一年前だ。異能とは何なのかさっぱり分からなかったイツキがその能力を隠し通したのは当然のことと言えるだろう。そこから情報を集め、知識を得て、警視庁には秘密裏に異能者を相手取る組織があるということを知ったタイミングで異能研究課から声がかかったのだから、偶然と言うには出来すぎている。イツキが異能者であることがどこで露見したのか分からない以上、やはり偶然である可能性も捨てきれないが、しかしイツキにはそれが偶然とは考えられなかった。
 帰宅ラッシュを過ぎたとはいえ、電車内には人が多い。酔いに任せて眠りに落ちたサラリーマンが、かくり、かくりと頭を振る。鞄を抱えぼんやりと電光掲示板を見れば、次が最寄りの駅だった。降りなければ、と意識するよりも早く体が動き、席を立つ。反射行動のような己の立ち居振る舞いに半ば呆れたところで電車が止まり、入り口が開く。降りる人々の合間を縫いながら、イツキは駅を出た。
 駅から歩いて五分のマンションが、異能研究課に移る際新たに借りた我が家だ。毎日のように研究室に行くイツキからしてみれば、荷物置き場と寝る場所といった程度でしかない賃貸マンションの一室だが、その姿が見えれば不思議と安堵に似た感覚を抱いた。途中買った遅い夕食を片手に、マンションの入り口で番号を入力する。
「――あの」
 声がかけられたのは、その時だった。
 まだ年若い女の声だった。振り返ったが誰もいない。慌てて視線を横にずらせば、入り口の階段の下、植え込みと壁の間に人影があった。薄暗い中、目を凝らせばそれが少女だということが分かり、イツキは緊張を僅かに緩めた。
 チョコレートを思わせる茶髪の少女は、桃色の目をしていた。
「あの、すみません」
 少女の足下にはボストンバッグが転がっていた。痩せた頬が、土で汚れた少女の服の裾が、そして必死さを浮かべる表情が、少女は体中で訴えていた。
 曰く、
「あたしを拾ってくれませんか?」
 その瞬間、鞄を落としたイツキを少女はやはり、真剣な目で見ていた。


羽根川メイ…保守派、異能者、髪は茶色、目は桃色、念動力を操る異能、立場に不安を感じている

ハネガワ・メイ。女、高校生。身長は女性の平均程度(155~160)。家出中のため、服はばらばら。居候先のイツキの服を借りることもある。
内ハネ気味のロングヘアー。背中の真ん中辺りまで伸びている。何か作業する時は、ポニーテールより少し低めの位置で括っている。裸眼。
一人称は「あたし」、二人称は「あなた」「きみ」、少し気分が高ぶっていると「あんた」と乱暴になる。口調は少女らしい柔らかさがあるが、怒る、悲しむなど極端に感情が高ぶるといくらか乱暴になる。性格は穏やか。
ただ無為に時間を過ごすのが好き。お茶を片手にぼんやりするとか、フローリングにぺったり横になるとか、12時間睡眠を実行するとか、とにかく自分の時間を無駄使いすることが好き。暇や退屈は友達。放っておくとしばらくそのままなので、観葉植物と同じような物扱いされる。
一方で、どこか遠くに行くことが好き。健脚。電車に乗る=乗っている間は暇、という理由で電車に乗るのも良い。だが交通機関は金がかかるため、普段はフラフラ散歩する程度。
暇な時間を作るために、やるべきことはさっさとやってしまう。口では嫌だなあと言いつつも体は動かす。夏休みの課題を最初の数日で終わらせて、あとは無為に過ごすタイプ。作業するスピードは速い。
イツキに住ませてもらっている以上何かしなければならないと思い、家事全般をしている。料理も下手な方ではない。もう少しスキル向上したい、と本人は思っているが、主に食べる側のイツキは食べられれば何でも良いので、結局なかなか向上しない。
不安になるようなものが嫌い。ホラーやスプラッタなど。出来れば安心して生活したい、という思いが強い。誰かに守ってもらいたいし、誰かに必要とされたい、という依存症的な側面がある。そのような考え方から保守派である。

数ヶ月前に異能に目覚めたはずだが、その辺りの記憶があいまい。何がきっかけだったのか、何が起こったのか、ということを上手く思い出せない。ただ、異能に目覚めたことがきっかけで家を出た。ふらふらホームレス生活をしていたところで、イツキに拾われる。それ以来イツキのマンションで過ごしている。
普通ならば失踪すれば報道されるが、運が良いのか発見されないままイツキのマンションに居着くようになった。家族や友人について考えることはあまりない。記憶があいまいだからなのか、異能に目覚める以前のことは割とどうでも良い。過去よりも今が大事、というよりも、しょせんその程度のものだったのかもしれない、という考え方。それに加えて不安を感じることに対して恐怖を抱いているため、記憶があいまいであることを出来る限り思考に入れたくない。故に、以前のことはほとんど考えない。

コミュニケーション能力はそこそこ。誰とでも、ある程度は話せる。人当たりは良い方。一応女子高生なので、ファッションや買い物が好き。誰かとプリクラを撮るのも嫌いじゃない。しかし集めたプリクラをどう活用すればいいのか悩んでしまう。
ぼんやりしている時でも、話しかければ答える。会話のキャッチボールがきちんと出来る。だが、端からコミュニケーションを放棄している相手とは、メイ自身困って結局会話は成立しない。

異能は念動力。だが、周囲の人間には決して話していないし、出来るなら異能など欲しくなかった。ただし、イツキは薄々勘付いている。メイはイツキが異能者であることも、異能研の人間であることも知らない。ただの研究者だと思っている。
今の時点で、自分の周囲(半径3~5m以内?)にあり、かつ自分より軽いものなら動かせる。重くなれば重くなるほど動かす際に体に疲労として蓄積されていく。また、重い物はあまり遠くまで投げられない。重くなくとも、一度に大量の物を動かしても疲れる。
ペンや包丁程度の物なら楽に動かせるので、それを勢いよく相手に当てる、などして攻撃することが可能。念動力の純血のため、慣れてくれば自分の体重以上の物も動かせるようになる。なお、いくら軽くても現時点では人は動かせない。


遠野イツキ…警視庁異能研究課、異能者、髪は黒、目は赤紫、風を操る異能、最近所属した

トオノ・イツキ。28歳、男。身長は高め(175~185)。シャツにスラックス、革靴、白衣着用。ネクタイはつけたりつけなかったり。首から身分証明カードをケースに入れてぶらさげている。
少し癖のあるショートカット。目つきはあまり良くない。視力が良いので裸眼だが、最近パソコンに向かうと目が疲れるので、眼鏡の導入を考えている。
一人称は「俺」、公的な場では「私」。上司には丁寧語、同年代、下には丁寧語は使わない。二人称は「おまえ」「君」「あなた」。口調は乱暴ではないが丁寧でもない。「~だろう」「~じゃないか」「~だったか」など。
ショートスリーパー。毎日三、四時間眠れれば十分。味覚は、食べられればとりあえず何でも良い。大学入学からずっと一人暮らしをしているが、一向に料理の腕が上達しないので、家で食事を摂る時は冷食やコンビニ弁当。大学時代の癖で、ビーカーに飲み物を入れて飲むことに躊躇いがない。
ひとつのことに熱中すると時間を忘れる。今は研究のために朝から晩まで研究室に篭もりきりになることもしばしば。しかもちょっとやそっとのことでは気が逸れないので、地震程度では反応しない。話しかけても無視されるか上の空な返事がされる。
熱中する物は何でも。ただし最近は研究所に詰めっぱなしのため、研究以外の何かに打ち込むことはあまりない。昔はやりこみ系RPGで三徹くらいしていた。
暇であることが苦痛。何かしていなければ落ち着かない。なので手癖が悪く、ペンを持てばペンを回し、要らない紙があればペーパーアートを始める。風の異能は紙飛行機をより遠くまで飛ばすことに使われる。

原因究明のためには研究は必須であり、そこから得られる物が何らかの形で技術や文明の進歩に繋がると考えている。進歩のためなら多少の犠牲は仕方ない。故に異能研の非人道的な実験などにもそれほど嫌悪感は抱いていない。とはいえ新入りかつ化学なので、法医学や心理学ほど異能者との接触はない。
異能者のことは「異能者」と呼び、嫌悪感も同情も何も抱いていない。自分自身も異能者だが、同じ異能者を研究材料とすることも厭わない。自分達のような異能持ち研究者とその他の異能者を無意識に区別して考えている。故に、自分も研究対象になるかもしれない可能性を、やはり無意識に排除している。その辺りは非常に都合の良い思考回路をしている。
現在、異能者の間で広まっている発狂を抑える薬の分析などを行っている。そこから実際に発狂を抑える薬を生み出すことは出来ないか、という研究も行っているが、全然進歩がない。

人と関わることは嫌いではないが、分析中など集中している時に話しかけられるとわざと無視する傾向がある。さすがに上司に声を掛けられると反応するが、声を掛けられてから反応するまで10~60秒のブランクがある。自分の集中を邪魔されるのは好きでは無い。とはいえさすがに研究所なので、研究中に話しかけられることもあまりないと思われる。
人に誘われれば食事や飲み会に参加するものの、自分から相手に言い出すことはあまりない。受動的。

風を操る異能の純血。異能に目覚めたのは一年ほど前(27歳くらい?)覚醒に対して悩むよりも、研究所での研究が急がしくてあまり自分の異能と向き合っていない。それが上記の異能者に対する線引きに関係している。
まだまだ発狂はしていない。能力はそれとなく使っている。紙飛行機を投げる時とか。現時点では風の流れを操る程度しか出来ない。のちのちそれを利用して、移動力の向上に生かせるくらいにはなるのでは。

化学分野鑑定担当。大学(化学系)→大学院→大学の研究所に所属する→異能研への引き抜き→異能研に。まだまだ新入り。
 キンモクセイの香りがする。人の郷愁を誘い、夏の終わりと秋の訪れを告げ、やがて冬に散っていく香りだ。視線を巡らせても鮮やかな小花はどこにも見えないと言うのに、香りだけが周囲に満ちてその存在を強く訴えている。
 早く帰らなければ、と思う。人通りの少ない住宅街の隙間から、オレンジに褪せていく空が見えた。振り返れば夜色が広がってきているだろう。秋は夜が長い。あっという間に沈んでいく太陽は眩しいが、輝けば輝くほど夜の暗さが深みを増すのだ。だから早く帰らなければならない。
 そう思っているのにも関わらず、なぜか足が竦んで動かなかった。地面に根を張ってしまったように、右の足も左の足も動いてはくれない。それに焦燥を抱くが、そもそもなぜそう焦るのか分からない。帰る場所はどこなのかということにも答えられないと気付き、彼は呆然とした。住宅街の真ん中で一人立ち、まるで迷子の子供のように途方に暮れ、しかし一方で焦燥感が自分の身を焦がす。
 夜が足音を立てて近付いてくる。キンモクセイの香りがする。足が竦んで一歩も動けない。飲み込まれそうだ、と一人あえぐ。動かないのは足だけではない。腕が、首が、うまく動かない。足下からだんだんと、体が浸食されていく。
「うた」
 だからだろうか、そう呼ぶ声がひどく遠いように思えた。
「うた」
 それは自分の名前であったと、もう一度呼ばれてようやく思い出す。うた。子供独特の高さの声がそう呼ぶ。少し甘えるような響きは親愛の証拠だ。軽やかな足音が背後から寄ってくるのが聞こえた。
 油を差し忘れた機械のように、緩慢な動きで振り向いた。薄暗い中、ちらほらと灯った街灯が、ようやく現実に引き戻してくれているようだった。もう太陽はほとんど沈んでいる。夕方が夜に変わっていく。その中で、少年とも少女ともつかない外見の子供がすぐ側に立っていた。
「むかえにきたよ、うた」
 白いシャツに大きな黒いパーカーの子供は言う。色あせた青いジーンズの裾をひきずり、ぼろぼろのスニーカーの靴紐は不器用に結ばれ、肩には黒い竹刀袋をかけていた。竹刀袋の口を結んでいるのは深みのある赤い紐で、それだけはスニーカーとは違い、きれいな蝶結びがされていた。ぶかぶかの袖から小さな手が伸びる。躊躇いなく手を捕まれ、静かに狼狽した。子供はやはり、ヘアピンで不器用に留められた前髪の隙間から覗く瞳でこちらを見ていた。
「かえろう、うた」
 だが、帰る場所が分からないのだ。泣きそうな顔をしていたのだろうか、子供は少しだけ笑った。
「家にかえるんだ」
「……でも」
「うん」
「でも、家がどこか、分からないんだ」
「自分が案内してあげる」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
 そうしてするりと手が結ばれた。子供の手はひやりと冷たく、どうしてか剥き身の刃を連想した。
「なあ、おまえの名前が思い出せないんだ」
 現実に戻ってきた自分がまたどこかに浮かんで飛んでいく。子供に手を引かれゆっくり歩き出した。それが妙に、現実感がなかった。ぼんやりと、それこそ夢を見ているかのように子供に問いかける。自分に親愛の情でもって接してくる子供のことが、何一つとして思い出せなかった。
「自分に名前はないよ、うた。無銘だ」
 軽やかな声で子供は答える。
「なんだ、うた、そんなことまでわすれてしまったの」
 帰る場所も自分の名すらも忘れていたことを子供は笑う。手を引かれた先にあるのは斜陽ではない、夜の闇だ。だが追いつかれてしまうような恐怖はない。それもそうだ、と冷たい手を強く握った。怖いものなど何もなかったはずなのだ。
 なぜなら、自分の手を握り返すこの子供がいるのだから。
「自分は銘のない刀だよ。おまえをまもるように、ずっとまえに生まれてきた、おまえの味方だ」
 そうして無銘の刀は歌を振り返りにっこり笑った。そういえばそうだった、とようやく夢から覚めたような心地がした。腕時計を見る。街灯の光を反射した盤面に、刻まれている数字は6と34。もうこんな時間か、と後ろを見れば、太陽はすっかり沈み辺り一面に夜が広がっていた。
「さあ、わかったならかえろう、うた」
 過ぎ去った誰そ彼時の、わずかな気配を振り切って足を踏み出す。無銘はもう振り返らない。冷たい刃物の温度が心地良かった。
「……ああ、帰ろう」
 ふわりと吹いた風にキンモクセイが一層香り、不意に垣根に目をやれば、オレンジ色のごく小さな花々が、音もなく落ちた。


月山歌…男子高校生。不思議なことに巻き込まれやすい。
無銘…名のない、歌の守り刀。
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