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Bernadette
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 キンモクセイの香りがする。人の郷愁を誘い、夏の終わりと秋の訪れを告げ、やがて冬に散っていく香りだ。視線を巡らせても鮮やかな小花はどこにも見えないと言うのに、香りだけが周囲に満ちてその存在を強く訴えている。
 早く帰らなければ、と思う。人通りの少ない住宅街の隙間から、オレンジに褪せていく空が見えた。振り返れば夜色が広がってきているだろう。秋は夜が長い。あっという間に沈んでいく太陽は眩しいが、輝けば輝くほど夜の暗さが深みを増すのだ。だから早く帰らなければならない。
 そう思っているのにも関わらず、なぜか足が竦んで動かなかった。地面に根を張ってしまったように、右の足も左の足も動いてはくれない。それに焦燥を抱くが、そもそもなぜそう焦るのか分からない。帰る場所はどこなのかということにも答えられないと気付き、彼は呆然とした。住宅街の真ん中で一人立ち、まるで迷子の子供のように途方に暮れ、しかし一方で焦燥感が自分の身を焦がす。
 夜が足音を立てて近付いてくる。キンモクセイの香りがする。足が竦んで一歩も動けない。飲み込まれそうだ、と一人あえぐ。動かないのは足だけではない。腕が、首が、うまく動かない。足下からだんだんと、体が浸食されていく。
「うた」
 だからだろうか、そう呼ぶ声がひどく遠いように思えた。
「うた」
 それは自分の名前であったと、もう一度呼ばれてようやく思い出す。うた。子供独特の高さの声がそう呼ぶ。少し甘えるような響きは親愛の証拠だ。軽やかな足音が背後から寄ってくるのが聞こえた。
 油を差し忘れた機械のように、緩慢な動きで振り向いた。薄暗い中、ちらほらと灯った街灯が、ようやく現実に引き戻してくれているようだった。もう太陽はほとんど沈んでいる。夕方が夜に変わっていく。その中で、少年とも少女ともつかない外見の子供がすぐ側に立っていた。
「むかえにきたよ、うた」
 白いシャツに大きな黒いパーカーの子供は言う。色あせた青いジーンズの裾をひきずり、ぼろぼろのスニーカーの靴紐は不器用に結ばれ、肩には黒い竹刀袋をかけていた。竹刀袋の口を結んでいるのは深みのある赤い紐で、それだけはスニーカーとは違い、きれいな蝶結びがされていた。ぶかぶかの袖から小さな手が伸びる。躊躇いなく手を捕まれ、静かに狼狽した。子供はやはり、ヘアピンで不器用に留められた前髪の隙間から覗く瞳でこちらを見ていた。
「かえろう、うた」
 だが、帰る場所が分からないのだ。泣きそうな顔をしていたのだろうか、子供は少しだけ笑った。
「家にかえるんだ」
「……でも」
「うん」
「でも、家がどこか、分からないんだ」
「自分が案内してあげる」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
 そうしてするりと手が結ばれた。子供の手はひやりと冷たく、どうしてか剥き身の刃を連想した。
「なあ、おまえの名前が思い出せないんだ」
 現実に戻ってきた自分がまたどこかに浮かんで飛んでいく。子供に手を引かれゆっくり歩き出した。それが妙に、現実感がなかった。ぼんやりと、それこそ夢を見ているかのように子供に問いかける。自分に親愛の情でもって接してくる子供のことが、何一つとして思い出せなかった。
「自分に名前はないよ、うた。無銘だ」
 軽やかな声で子供は答える。
「なんだ、うた、そんなことまでわすれてしまったの」
 帰る場所も自分の名すらも忘れていたことを子供は笑う。手を引かれた先にあるのは斜陽ではない、夜の闇だ。だが追いつかれてしまうような恐怖はない。それもそうだ、と冷たい手を強く握った。怖いものなど何もなかったはずなのだ。
 なぜなら、自分の手を握り返すこの子供がいるのだから。
「自分は銘のない刀だよ。おまえをまもるように、ずっとまえに生まれてきた、おまえの味方だ」
 そうして無銘の刀は歌を振り返りにっこり笑った。そういえばそうだった、とようやく夢から覚めたような心地がした。腕時計を見る。街灯の光を反射した盤面に、刻まれている数字は6と34。もうこんな時間か、と後ろを見れば、太陽はすっかり沈み辺り一面に夜が広がっていた。
「さあ、わかったならかえろう、うた」
 過ぎ去った誰そ彼時の、わずかな気配を振り切って足を踏み出す。無銘はもう振り返らない。冷たい刃物の温度が心地良かった。
「……ああ、帰ろう」
 ふわりと吹いた風にキンモクセイが一層香り、不意に垣根に目をやれば、オレンジ色のごく小さな花々が、音もなく落ちた。


月山歌…男子高校生。不思議なことに巻き込まれやすい。
無銘…名のない、歌の守り刀。
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