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Bernadette
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 脱いだ白衣をハンガーに掛け、ロッカーの中に吊り下げる。それと入れ替わりにスーツのジャケットを取り出し羽織った。およそ12時間ぶりに袖を通したジャケットはひやりと冷たい。だが自分の体に馴染むそれは、イツキにわずかな安堵をもたらした。
 ロッカーの扉を閉め、鍵をかける。鍵を仕舞うついでに足下に置いた鞄に財布があるのを確認し、携帯電話はスーツのポケットに突っ込んだ。そこで初めて、自分が身分証明証の入ったケースをぶら下げていることに気付き慌てて外す。紐をくるくると巻き付け、それも鞄の中に放り込んだ。無意味にスーツの表面を撫で、軽く叩き、そうしてようやく帰る準備は完了する。
 たった一人しかいなかった男子更衣室を出て、配属された研究室に少しだけ顔を出し、先に帰る旨を告げた。とはいえとうに一般的な退勤時間は過ぎている。それでも研究室では白衣を着た同僚たちが忙しげに仕事を続けていた。この職場に来て一ヶ月以上経つが、退勤時間というものがここではただのお飾りだということは身を持って知っている。研究熱心だというよりも、渡される仕事の数と研究員の数が釣り合わないが故の現状だ。その中で一人悠々と帰宅するのは気が引けたが、しかしイツキが残ったところで出来る仕事は今はない。声をかけてきた数人に一言二言返し、イツキは研究室を出た。
「ああ、遠野。明日、もしかしたら分析頼むかもしれないからよろしく頼む」
「分かりました。……捜査課から預かった、とおっしゃっていた薬ですか」
「そうだ。発狂を抑えるという触れ込みのな」
 去り際、事も無げにイツキに言葉を投げてよこした上司は、皮肉気に唇の端を歪めていた。あるいはイツキもそんな表情をしたかもしれない。鞄を持たない手で、無意味に自分の髪の毛を掻き回した。存在し得ない薬を売る側も買う側も、等しく哀れに思えたのだ。


 大学から大学院を経て、そのまま大学の研究所に身を置いたイツキが、警視庁異能研究課に所属したのはごく最近のことだ。実のことを言えば、イツキにも何故こうなったのか詳しくは説明できない。そもそも警視庁異能研究課は、世間的には存在しないことになっている組織だ。そんな組織に所属するにあたりイツキも準備や片づけに追われ、気付けば異能研究課に足を踏み入れていた、という有様である。ごくごく一般的な研究所から研究員が引き抜かれるのは異常なことだとさすがのイツキにでも分かるが、そこには何か事情があったのだろう。そしてその事情の中に、イツキが異能者であるということも含まれているに違いない。
 今も意識すれば、隣のサラリーマンから漂うアルコール臭を明後日の方向に向けることが出来るのだろう。風の流れを操る異能を持っていると気付いたのは、およそ一年前だ。異能とは何なのかさっぱり分からなかったイツキがその能力を隠し通したのは当然のことと言えるだろう。そこから情報を集め、知識を得て、警視庁には秘密裏に異能者を相手取る組織があるということを知ったタイミングで異能研究課から声がかかったのだから、偶然と言うには出来すぎている。イツキが異能者であることがどこで露見したのか分からない以上、やはり偶然である可能性も捨てきれないが、しかしイツキにはそれが偶然とは考えられなかった。
 帰宅ラッシュを過ぎたとはいえ、電車内には人が多い。酔いに任せて眠りに落ちたサラリーマンが、かくり、かくりと頭を振る。鞄を抱えぼんやりと電光掲示板を見れば、次が最寄りの駅だった。降りなければ、と意識するよりも早く体が動き、席を立つ。反射行動のような己の立ち居振る舞いに半ば呆れたところで電車が止まり、入り口が開く。降りる人々の合間を縫いながら、イツキは駅を出た。
 駅から歩いて五分のマンションが、異能研究課に移る際新たに借りた我が家だ。毎日のように研究室に行くイツキからしてみれば、荷物置き場と寝る場所といった程度でしかない賃貸マンションの一室だが、その姿が見えれば不思議と安堵に似た感覚を抱いた。途中買った遅い夕食を片手に、マンションの入り口で番号を入力する。
「――あの」
 声がかけられたのは、その時だった。
 まだ年若い女の声だった。振り返ったが誰もいない。慌てて視線を横にずらせば、入り口の階段の下、植え込みと壁の間に人影があった。薄暗い中、目を凝らせばそれが少女だということが分かり、イツキは緊張を僅かに緩めた。
 チョコレートを思わせる茶髪の少女は、桃色の目をしていた。
「あの、すみません」
 少女の足下にはボストンバッグが転がっていた。痩せた頬が、土で汚れた少女の服の裾が、そして必死さを浮かべる表情が、少女は体中で訴えていた。
 曰く、
「あたしを拾ってくれませんか?」
 その瞬間、鞄を落としたイツキを少女はやはり、真剣な目で見ていた。


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