始めに言っておこう。私は数学が大の苦手である。
大の苦手というのはとてもソフトな表現であると我ながら思う。ではハードな表現をするとどうなるかというと、「三食すべて大嫌いなピーマン丸かじりにするのと数学を勉強するのだったらどっちが良い?」と聞かれて、一分くらい悩んでピーマンを選ぶくらいには、数学が嫌いだ。憎たらしい。かわいげがない。なんで数字と文字を一緒に使うのかが理解できない。点Pが1秒に1cmずつ動く原理が分からない。なんなのおまえ点のくせに動くとかアニメーションなのそれともなんかよく分かんない現象なのほんとなんなの?
そんなことを目の前のうら若き教師に切々と訴えたら、ものすごく深いため息をついて某アニメの主人公の父親のポーズをとられた。解せぬ。
大切なことは二度言っておくと良い。なので私は繰り返す。
「先生、私は数学が大嫌いです!」
「君さ、さっきは大の苦手って言ったじゃん。なんか変わってるよ? より酷いランクになってるよ?」
黒縁眼鏡の向こう側の目が潤んでいるように見えたのはたぶん私の気のせいではないだろう。案外涙腺が緩いのである、この先生。もしくは生徒に自分の担当教科を心の底からこき下ろされたのがその豆腐のようにもろい心に響いてしまったのか。こんなに打たれ弱くてこの先この先生生き残れるのだろうかと人事ながら心配になってしまうのであった。
そう言うわけで、数学の教科書を手にしながら私は先生と向き合うのだが、そもそも教科書の表紙にかっこよくデザインされた数式を見ただけでもうやる気が失せていることを言うべきか言うまいか。言ったら今度こそ先生が号泣しそうである。ちなみに今は放課後で、ここは部活顧問達がこぞって姿を消した職員室だが、当然部活顧問でない先生方がいらっしゃるので、泣いたら白い目で見られること請け合い。生徒に泣かされる新任教師いえーい。あ、別に泣かせた私の名前は広まらんでよろしい。私はいたってふつうの、善良な生徒ですのであしからず。
「先生、私、数学が大嫌いなんですよ!」
「それはもう分かったから。もう私のね、精神をね、がりがり削るのは止めてくれないかな? 先生数学担当なんだ。君にそれを教えるのが仕事だから仕方ないんだ」
「あきらめも肝心ですよ」
「いやそこであきらめたらだめだから。私職務放棄なっちゃう」
なかなかしぶとい先生だった。別にやる気のない生徒一人ぐらい放っておいても問題ないのではなかろうか。だというのにわざわざ個人的に補習してくれるあたり生真面目な人である。
某アニメの主人公の父親のポーズから復活した先生が、自分のデスクの上をわちゃわちゃと片付ける。教師って損な役回りだよなーと積み上げられた生徒の提出ノートやらカラフルな判子やらを見て思った。そして私はそのノートをうっかり出し忘れたことに気付いたけど、知らないふりをすることに決めた。
「とにかく、君には少しでも良いから数学の点数をだな」
咳払い一つして、授業に使っているらしいノートとペンを取り出しつつ先生が向き合った。いよいよ私のやる気が減退する。先生がぱらぱらめくるノートにびっしりと書かれた数式を見ただけでもう逃げ出したくなるのだから、私の数学嫌いは根が深い。
「それじゃあどこからやろうか」
「全部分かりません!」
「……」
無言で眼鏡を押し上げた先生がものすごく悲痛な顔をしたけれど、やっぱり知らないふりである。頑張れ若手教師。私決してあなたのこと嫌いじゃないよ! ただあなたの教える教科が嫌いなだけであってうんぬんかんぬん。
まあ、あれである。
「先生先生、がんばってください」
「君が頑張るんだよ」
ため息をつくと幸せが逃げるらしいので、先生の幸せは逃げっぱなしだ。え、逃がしている原因はお前じゃないのかって? いやいやそんなー私じゃないですよー。強いて言えば一生懸命職務に励む先生が数学教諭であることが運の尽きだったというくらいで。そして何故か、先生の担当するクラスは数学苦手な連中ばっかりだったという程度。
でもまあ我々、決して先生のこと嫌いではないので。数学を親の仇のように憎む連中にも必死に教えてくれる姿はとても良いと思います。数学は大っ嫌いだけども。そうじゃなければわざわざ放課後の補習なんて参加しないだろう。
頑張れ、先生。きっとそう言ったら、君が頑張れともう一度言われてしまうんだろうけど。
足下の鞄から筆記用具を取り出しながら、やはり数学のノート提出をするべきかと一瞬考えて、
「まあ、良いか」
とりあえず、気を持ち直した先生に教えを請う体勢になった。
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