「不思議だな、これで七回目だ」
石を投げる。ざらりとした灰色の石は二回水面を跳ねて川底へ沈んだ。音の存在を忘れるほど穏やか流れは、川でありながら海のようでもある。広い水面を漂う霧で対岸は見えず、どこを見ようともそこには川と霧と桟橋と、石の転がる河原しかない。
あちら側とこちら側を隔てる川は、いつものように静かに流れている。
「あっちに渡るための桟橋はいくつもあるっていうのにな。なんであんただけは何回も、この桟橋にくるんだろう」
黒ずくめの男は石を拾い、桟橋に腰掛ける女に問いかけた。僅かに明るさのある髪を緩く一つにまとめた、若い女は小さく首を振った。
「わたしにも分からないわ」
ワンピースからのぞく白い足が桟橋から水面へと伸びる。水面に触れたサンダルの爪先が川に波紋を生み出したが、それはすぐに流れに消えた。女の足は子供のように川面を叩く。水しぶきが少し離れた男の黒衣や、フードに半分近く隠れた頬に当たった。
彼岸と此岸の間を流れる川の水は冷たい。あちら側へ渡るための船は、いまだこちらに戻ってこない。
「俺も長くここにいるが、生まれ変わってもこうして、同じ桟橋にくるようなのはあんただけだよ」
ぱしゃりぱしゃりと水音が河原の静寂を破り捨てる。男は手にしていた石を川に投げた。その音も、女の足が作り出す水音にかき消された。
だが、唐突にその音は止んだ。何事かと視線を向けると、女が困ったような顔で川をのぞき込んでいた。その左足にサンダルはない。
ああ、と男は納得した。
「おいおい、何をしているんだ」
「だって、暇だったもの」
「それにしたって馬鹿なことをするもんだ。何よりこの川の水は冷たいだろうに」
特に何を考えたわけでもなく、男は川に入り、女の足下をじっと凝視した。桟橋近くは浅く、水は澄んでいる。膝まで濡らしつつ水底を探すと、サンダルは簡単に見つかった。真っ白なそれの足の甲部分には薄桃色の花の飾りがついていて、踵はずいぶんと高かった。果たしてこれで歩けるものなのかと疑問に思ったが、口には出さなかった。
視線を上げると女の華奢な足が目に入った。冷たい水で遊んでいたせいなのだろう、肌は赤く色づいている。その爪が不思議に光っていることに気づき、男は首を傾げた。
「爪、なんで光ってるんだ」
「爪? ・・・・・・ああ、これはね、ネイルアートっていうの。爪をきれいに整えて、色をつけて、おしゃれにすることよ」
「おしゃれ、ねえ。あんた、好きなのか」
「好きよ。きれいになることは好き」
「ふうん。それなのに死んだのか。死んだらその、ネイルアートっていうヤツもできないだろうに」
更に視線を上げると女と目が合った。女の憂いを含んだ瞳が伏せられる。
「そうね、きっと、きれいになっても喜んでくれる人がいなくなってしまったから」
そうして女は悲しげにほほえんだ。
「結婚式前にね、私の夫になるはずだった人が死んでしまったのよ」
「・・・・・・」
「愛していたのに、ね」
じゃあ今は愛していないのか。男はささやくように尋ねた。
女は頭を振った。
「分からない。死のうと思ってあの人と同じように飛び降りた、その瞬間までは愛していたと思う。けれど、落ちていくうちに何か変わってしまったような気がするの」
サンダルを差し出すと、やはり華奢な手が受け取った。左手の薬指では銀色の指輪が輝いている。女はそれを眩しげに見つめていた。
「落ちていく時間がとても長く感じられたわ。その中でね、どうしてかしら、あなたに会いたいと思ったの」
「俺かい?」
「そう」
一瞬の沈黙の後、女は深くため息をついた。
「前世の記憶って言うのかしらね、昔からそうだった。その時代を生きたわたしが死んで、河原であなたと会う。その繰り返しが六回分。ずっと覚えていたの」
「ふうん」
「小さい時から、その景色が頭の中にあったわ。大きくなるにつれて夢だと思うようになったし、本当に、それは幼いわたしの妄想だと信じてた」
「だけど、違ったんだろう。夢じゃなかった」
「そう。死ぬ瞬間に、ああ、これは夢や妄想なんかじゃなかったんだって気づいたわ」
冷たい川の中に立ち尽くしながら、男は女の顔を見つめた。
「六回生きて、七回目の人生を終わらせたわたしと、一度も変わっていないあなた。ねえ、わたしはあなたの目に、どう映っているのかしら」
いっそ穏やかとも言える女の瞳が、布越しに男の目をとらえたような気がした。
記憶を遡り、はるか昔から続く女との再会を思い出す。今この瞬間を含めて七回、そのどれも、女はそう歳をとっていなかった。早死にと言ってもいいくらいの年齢で、男とこの河原で顔を合わせている。時の流れに沿って顔形や体型は多少変わっているが、そのどれもが悲しげな微笑を浮かべていた。
悲しげな微笑。長いまつげが濡れたように黒い。緩やかな憂いを含んだ瞳の中に、静かな不安が沈んでいるようにも見えた。
「・・・・・・変わらんさ。昔も今も、あんたは変わってない」
水に何かが落ちる音が響いた。男の目の前で水しぶきが上がった。女の右足からサンダルが落ちたのだ。気泡が水面を揺るがして弾け、一瞬だけ水が白く濁り、また元の透明に戻る。白いサンダルは水の青さを映して青白く、ものも言わずに底に沈んでいた。
またサンダルを取ろうと前かがみになった男の頭を、優しく撫でる手があった。被っているフードが軽く引っ張られ男は静かに抵抗した。それを見越していたように女の手がするりと離れた。視界の端で銀色が瞬く。
「そう、変わっていないのね」
安堵したような声が聞こえた。
「どれだけ長い時間がたっても、変わらないものはあるのね」
「俺は変わらないさ」
「あなたが変わらないのなら、私もきっと変わらないわ」
「そうかねえ」
「そうよ。何度生まれ変わっても必ずここにくる。死ぬ寸前にあなたのことを思いだして、そしてまた同じことを繰り返す」
今度こそ、水底からサンダルを掬い上げた。濡れた偽物の花が水を滴らせ、白いエナメルが男の手から熱を奪う。桟橋からふらりと揺れる女の足は裸足だ。指輪とはまた違うネイルの輝きは、花と同じ薄桃色だった。
「悲しいもんだな。死ぬために生きるもんじゃないか」
「だとしてもわたしはきっと幸せだわ」
「幸せ、ねえ。これが幸せならあんた、報われないぞ。不毛な人生だ」
ひょいと男の手からサンダルを取り上げ女は笑った。悲しげではない、およそ初めて見る美しい笑みだった。
「そういうものなのよ。わたしがここにくる理由は」
小舟が軋み声をあげて彼岸からやってくる。そこでようやく男は桟橋に上がった。黒衣の水気を絞り終える頃には、女は濡れたサンダルを履いて桟橋の端に立ち、船がくる方をじっと見つめていた。
「・・・・・・なああんた、人を愛するって言うのは、どんな気分なんだ?」
女の一歩後ろに立ち、同じように船の到着を待つ。男の疑問に女の艶やかに掠れた声が答えた。
「会いたい、話したい、触れたい。そういう思いが積もって積もって切なくなる。そんな気分よ」
「ふうむ、分からんねえ。それは人間じゃないと理解できないことなのかもしれん」
「そうかしら。きっとあなたにも分かると思うわ」
船が近づいてくる。
「俺には無理さ。なにせ、人間として生きたことはない」
「人間であることと愛することは別物よ。それでも信じられないのなら、そうね、待っていて」
「待つ?」
「ここで待っていて。わたしはまたここに来るわ。その時にきっと分かるから」
約束よ、と女は左手の小指を差し出した。何事かと首を傾げる男の片手をとり、その小指と小指を結ぶ。結んでいたのはほんの数秒で、女の小指はするりと離れた。
静寂を切り裂く船の音は、もう目の前にある。寡黙な船守が無言で女を促した。
ワンピースの裾が、長い髪が、河原の冷たい空気にふわりと揺れた。
「それじゃ、また」
「・・・・・・ああ、また、いつか」
笑顔を一つ、女は船へ乗り込んだ。細い背中は二度と振り返らず、男はただ静かにその姿を見守る。船守がそっと会釈をして舵を取った。
川を渡っていく船を見つめながら、結んだ小指に触れてみる。およそ初めて触れた人の肌は柔らかく、男よりもずっと温かだった。あの女のために、よく分からない誰かへ何かを祈ってみようかと、男はそっと小指を握りしめた。
白い霧と川を進む船の中、きっと女は振り返らない。
石を投げる。ざらりとした灰色の石は二回水面を跳ねて川底へ沈んだ。音の存在を忘れるほど穏やか流れは、川でありながら海のようでもある。広い水面を漂う霧で対岸は見えず、どこを見ようともそこには川と霧と桟橋と、石の転がる河原しかない。
あちら側とこちら側を隔てる川は、いつものように静かに流れている。
「あっちに渡るための桟橋はいくつもあるっていうのにな。なんであんただけは何回も、この桟橋にくるんだろう」
黒ずくめの男は石を拾い、桟橋に腰掛ける女に問いかけた。僅かに明るさのある髪を緩く一つにまとめた、若い女は小さく首を振った。
「わたしにも分からないわ」
ワンピースからのぞく白い足が桟橋から水面へと伸びる。水面に触れたサンダルの爪先が川に波紋を生み出したが、それはすぐに流れに消えた。女の足は子供のように川面を叩く。水しぶきが少し離れた男の黒衣や、フードに半分近く隠れた頬に当たった。
彼岸と此岸の間を流れる川の水は冷たい。あちら側へ渡るための船は、いまだこちらに戻ってこない。
「俺も長くここにいるが、生まれ変わってもこうして、同じ桟橋にくるようなのはあんただけだよ」
ぱしゃりぱしゃりと水音が河原の静寂を破り捨てる。男は手にしていた石を川に投げた。その音も、女の足が作り出す水音にかき消された。
だが、唐突にその音は止んだ。何事かと視線を向けると、女が困ったような顔で川をのぞき込んでいた。その左足にサンダルはない。
ああ、と男は納得した。
「おいおい、何をしているんだ」
「だって、暇だったもの」
「それにしたって馬鹿なことをするもんだ。何よりこの川の水は冷たいだろうに」
特に何を考えたわけでもなく、男は川に入り、女の足下をじっと凝視した。桟橋近くは浅く、水は澄んでいる。膝まで濡らしつつ水底を探すと、サンダルは簡単に見つかった。真っ白なそれの足の甲部分には薄桃色の花の飾りがついていて、踵はずいぶんと高かった。果たしてこれで歩けるものなのかと疑問に思ったが、口には出さなかった。
視線を上げると女の華奢な足が目に入った。冷たい水で遊んでいたせいなのだろう、肌は赤く色づいている。その爪が不思議に光っていることに気づき、男は首を傾げた。
「爪、なんで光ってるんだ」
「爪? ・・・・・・ああ、これはね、ネイルアートっていうの。爪をきれいに整えて、色をつけて、おしゃれにすることよ」
「おしゃれ、ねえ。あんた、好きなのか」
「好きよ。きれいになることは好き」
「ふうん。それなのに死んだのか。死んだらその、ネイルアートっていうヤツもできないだろうに」
更に視線を上げると女と目が合った。女の憂いを含んだ瞳が伏せられる。
「そうね、きっと、きれいになっても喜んでくれる人がいなくなってしまったから」
そうして女は悲しげにほほえんだ。
「結婚式前にね、私の夫になるはずだった人が死んでしまったのよ」
「・・・・・・」
「愛していたのに、ね」
じゃあ今は愛していないのか。男はささやくように尋ねた。
女は頭を振った。
「分からない。死のうと思ってあの人と同じように飛び降りた、その瞬間までは愛していたと思う。けれど、落ちていくうちに何か変わってしまったような気がするの」
サンダルを差し出すと、やはり華奢な手が受け取った。左手の薬指では銀色の指輪が輝いている。女はそれを眩しげに見つめていた。
「落ちていく時間がとても長く感じられたわ。その中でね、どうしてかしら、あなたに会いたいと思ったの」
「俺かい?」
「そう」
一瞬の沈黙の後、女は深くため息をついた。
「前世の記憶って言うのかしらね、昔からそうだった。その時代を生きたわたしが死んで、河原であなたと会う。その繰り返しが六回分。ずっと覚えていたの」
「ふうん」
「小さい時から、その景色が頭の中にあったわ。大きくなるにつれて夢だと思うようになったし、本当に、それは幼いわたしの妄想だと信じてた」
「だけど、違ったんだろう。夢じゃなかった」
「そう。死ぬ瞬間に、ああ、これは夢や妄想なんかじゃなかったんだって気づいたわ」
冷たい川の中に立ち尽くしながら、男は女の顔を見つめた。
「六回生きて、七回目の人生を終わらせたわたしと、一度も変わっていないあなた。ねえ、わたしはあなたの目に、どう映っているのかしら」
いっそ穏やかとも言える女の瞳が、布越しに男の目をとらえたような気がした。
記憶を遡り、はるか昔から続く女との再会を思い出す。今この瞬間を含めて七回、そのどれも、女はそう歳をとっていなかった。早死にと言ってもいいくらいの年齢で、男とこの河原で顔を合わせている。時の流れに沿って顔形や体型は多少変わっているが、そのどれもが悲しげな微笑を浮かべていた。
悲しげな微笑。長いまつげが濡れたように黒い。緩やかな憂いを含んだ瞳の中に、静かな不安が沈んでいるようにも見えた。
「・・・・・・変わらんさ。昔も今も、あんたは変わってない」
水に何かが落ちる音が響いた。男の目の前で水しぶきが上がった。女の右足からサンダルが落ちたのだ。気泡が水面を揺るがして弾け、一瞬だけ水が白く濁り、また元の透明に戻る。白いサンダルは水の青さを映して青白く、ものも言わずに底に沈んでいた。
またサンダルを取ろうと前かがみになった男の頭を、優しく撫でる手があった。被っているフードが軽く引っ張られ男は静かに抵抗した。それを見越していたように女の手がするりと離れた。視界の端で銀色が瞬く。
「そう、変わっていないのね」
安堵したような声が聞こえた。
「どれだけ長い時間がたっても、変わらないものはあるのね」
「俺は変わらないさ」
「あなたが変わらないのなら、私もきっと変わらないわ」
「そうかねえ」
「そうよ。何度生まれ変わっても必ずここにくる。死ぬ寸前にあなたのことを思いだして、そしてまた同じことを繰り返す」
今度こそ、水底からサンダルを掬い上げた。濡れた偽物の花が水を滴らせ、白いエナメルが男の手から熱を奪う。桟橋からふらりと揺れる女の足は裸足だ。指輪とはまた違うネイルの輝きは、花と同じ薄桃色だった。
「悲しいもんだな。死ぬために生きるもんじゃないか」
「だとしてもわたしはきっと幸せだわ」
「幸せ、ねえ。これが幸せならあんた、報われないぞ。不毛な人生だ」
ひょいと男の手からサンダルを取り上げ女は笑った。悲しげではない、およそ初めて見る美しい笑みだった。
「そういうものなのよ。わたしがここにくる理由は」
小舟が軋み声をあげて彼岸からやってくる。そこでようやく男は桟橋に上がった。黒衣の水気を絞り終える頃には、女は濡れたサンダルを履いて桟橋の端に立ち、船がくる方をじっと見つめていた。
「・・・・・・なああんた、人を愛するって言うのは、どんな気分なんだ?」
女の一歩後ろに立ち、同じように船の到着を待つ。男の疑問に女の艶やかに掠れた声が答えた。
「会いたい、話したい、触れたい。そういう思いが積もって積もって切なくなる。そんな気分よ」
「ふうむ、分からんねえ。それは人間じゃないと理解できないことなのかもしれん」
「そうかしら。きっとあなたにも分かると思うわ」
船が近づいてくる。
「俺には無理さ。なにせ、人間として生きたことはない」
「人間であることと愛することは別物よ。それでも信じられないのなら、そうね、待っていて」
「待つ?」
「ここで待っていて。わたしはまたここに来るわ。その時にきっと分かるから」
約束よ、と女は左手の小指を差し出した。何事かと首を傾げる男の片手をとり、その小指と小指を結ぶ。結んでいたのはほんの数秒で、女の小指はするりと離れた。
静寂を切り裂く船の音は、もう目の前にある。寡黙な船守が無言で女を促した。
ワンピースの裾が、長い髪が、河原の冷たい空気にふわりと揺れた。
「それじゃ、また」
「・・・・・・ああ、また、いつか」
笑顔を一つ、女は船へ乗り込んだ。細い背中は二度と振り返らず、男はただ静かにその姿を見守る。船守がそっと会釈をして舵を取った。
川を渡っていく船を見つめながら、結んだ小指に触れてみる。およそ初めて触れた人の肌は柔らかく、男よりもずっと温かだった。あの女のために、よく分からない誰かへ何かを祈ってみようかと、男はそっと小指を握りしめた。
白い霧と川を進む船の中、きっと女は振り返らない。
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