血の気を失った真っ白な頬の、なだらかな感触はいまだなくなっていない。壊れ物に触れるよりも慎重に手を伸ばしてそれに触れる。冷たい。ただ、ただ冷たい。
最初はゆっくりと、何度も何度も頬を撫でた。自分の体温が、この冷たい頬に移れば良いのに。そう思っても白く青ざめた頬はまるで氷のようなままで何も変わりはしなかった。
ああ、と吐息が漏れた。涙が落ちた。それは自分の両目からで、みるみるうちに視界が曇り涙が白い肌へと落ちていった。
さようなら。泣きじゃくりながら別れを告げる。愛している。いつまでも言えず結局今ここで、相手不在のまま告げる。
きっと自分は遅すぎたのだ。抱きしめたいと思った体はもう動かず冷たく腐っていく。愛している、愛している。繰り返す言葉に行き場所はない。さようなら。愛してる。繰り返す意識が白く濁っていく。
最初はゆっくりと、何度も何度も頬を撫でた。自分の体温が、この冷たい頬に移れば良いのに。そう思っても白く青ざめた頬はまるで氷のようなままで何も変わりはしなかった。
ああ、と吐息が漏れた。涙が落ちた。それは自分の両目からで、みるみるうちに視界が曇り涙が白い肌へと落ちていった。
さようなら。泣きじゃくりながら別れを告げる。愛している。いつまでも言えず結局今ここで、相手不在のまま告げる。
きっと自分は遅すぎたのだ。抱きしめたいと思った体はもう動かず冷たく腐っていく。愛している、愛している。繰り返す言葉に行き場所はない。さようなら。愛してる。繰り返す意識が白く濁っていく。
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目を閉じると他の感覚がよく冴える。瞼で覆われた羽住の世界を形作っているのは嗅覚と聴覚だ。甘く古ぼけた木の匂いと僅かに酸味を含んだ珈琲の匂い。液体が揺れる音と人の呼吸。
目を開ける。琥珀色の照明と飴色のアンティーク家具で統一された喫茶店の、一番端のカウンター席だった。頬杖をといて正面を向けば、無精髭を生やした男が羽住をじっと見ていた。
「なんですか、マスター」
「てっきり寝ているのかと思ってな」
寝るなら家で寝ろ学生、と、存外口の悪い喫茶店の店主はぷかりと煙草をふかした。バニラに似た甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「それ飲んだらさっさと帰れ。閉店だ」
言われて時計を見る。自分の時計が狂っていないことを確認して、羽住はため息をついた。
「ちゃんと仕事してくださいよ、まだ五時にもなってないじゃないですか」
不平を垂れたが、店主は素知らぬふりでそっぽを向いた。もう一度ため息をつきコーヒーカップを手に取る。中身はだいぶ冷めていた。ぬるい液体をほんの少し、口の中で転がすように味わい飲み干すと、穏やかな充足感が体を満たした。
カウンターの向こうで、店主の手が短くなった煙草を灰皿で潰していた。その彼の手が煙草の箱に伸びた。慣れた手つきで開けたその中に煙草はない。一瞬なんともいえない沈黙がカウンターに広がる。ちらりと羽住を見やった店主が発した言葉は、羽住の予想通りの言葉だった。
「買ってこい」
即座に返す。
「客におつかい頼まないでください」
店主が肩を竦めてみせた。思わず羽住も肩を竦めそうになったが、彼ほど動作が似合わなそうだったので止めた。代わりにもう一口、もう一口とコーヒーに口をつけた。
ドアに嵌った磨りガラスの向こう側は夕日色で染まっている。カウンターの向こう側とこちら側に沈黙が降りた。ふ、と小さく息をつくのが聞こえて視線を向けると、店主もまた羽住を見ていた。
「煙草ないからな、それ飲み終わったら閉店だぞ」
この店の主に言われたらそれはもはやどうしようもない。二つ返事で答えながら、残り半分を切ったコーヒーカップの中身を、ことさらゆっくり飲む作業に移った。
目を開ける。琥珀色の照明と飴色のアンティーク家具で統一された喫茶店の、一番端のカウンター席だった。頬杖をといて正面を向けば、無精髭を生やした男が羽住をじっと見ていた。
「なんですか、マスター」
「てっきり寝ているのかと思ってな」
寝るなら家で寝ろ学生、と、存外口の悪い喫茶店の店主はぷかりと煙草をふかした。バニラに似た甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「それ飲んだらさっさと帰れ。閉店だ」
言われて時計を見る。自分の時計が狂っていないことを確認して、羽住はため息をついた。
「ちゃんと仕事してくださいよ、まだ五時にもなってないじゃないですか」
不平を垂れたが、店主は素知らぬふりでそっぽを向いた。もう一度ため息をつきコーヒーカップを手に取る。中身はだいぶ冷めていた。ぬるい液体をほんの少し、口の中で転がすように味わい飲み干すと、穏やかな充足感が体を満たした。
カウンターの向こうで、店主の手が短くなった煙草を灰皿で潰していた。その彼の手が煙草の箱に伸びた。慣れた手つきで開けたその中に煙草はない。一瞬なんともいえない沈黙がカウンターに広がる。ちらりと羽住を見やった店主が発した言葉は、羽住の予想通りの言葉だった。
「買ってこい」
即座に返す。
「客におつかい頼まないでください」
店主が肩を竦めてみせた。思わず羽住も肩を竦めそうになったが、彼ほど動作が似合わなそうだったので止めた。代わりにもう一口、もう一口とコーヒーに口をつけた。
ドアに嵌った磨りガラスの向こう側は夕日色で染まっている。カウンターの向こう側とこちら側に沈黙が降りた。ふ、と小さく息をつくのが聞こえて視線を向けると、店主もまた羽住を見ていた。
「煙草ないからな、それ飲み終わったら閉店だぞ」
この店の主に言われたらそれはもはやどうしようもない。二つ返事で答えながら、残り半分を切ったコーヒーカップの中身を、ことさらゆっくり飲む作業に移った。
あの人の声に似ている俺が好きなんでしょう?知ってるよ、それくらい。
自分の隣で静かに眠る人の口からこぼれる知らない名前。夢でも見ているんだろう。その夢に出ているのは俺ではなく、あの人なんだろう。
俺と声のよく似た人。どんな人だったのかは知らない。知るつもりもない。だけど、彼女が俺に呼ばれて振り返る瞬間の、あの、期待に満ちた目が、次の瞬間曇り失望を宿す目が、俺の頭の中に焼き付いて離れないのだ。
なあ、どれだけ、どれだけ呼べば気付いてくれるんだ。俺は、貴女が期待している人物じゃない。声だけが似た、まったく別人なんだ。
俺を愛して欲しい。他の誰でもない、俺を愛して欲しい。声に姿を投影しないで。貴女が寝言で名前を呼ぶ、涙を流す、その男じゃないんだ。
きっと俺はこれからも彼女の名前を呼ぶだろう。そのたびに期待に満ちた目に晒されるんだろう。そうしてすぐ失望に変わる、その変化に泣きたくなるんだ。
それでも良いんだ。だって俺は、彼女を愛しているんだ。だからこそ泣きたくなる。彼女は俺を見ていないから。俺の向こう側の誰かを見ているから。
どうか、俺を見てください。俺の名前を、呼んで下さい。
自分の隣で静かに眠る人の口からこぼれる知らない名前。夢でも見ているんだろう。その夢に出ているのは俺ではなく、あの人なんだろう。
俺と声のよく似た人。どんな人だったのかは知らない。知るつもりもない。だけど、彼女が俺に呼ばれて振り返る瞬間の、あの、期待に満ちた目が、次の瞬間曇り失望を宿す目が、俺の頭の中に焼き付いて離れないのだ。
なあ、どれだけ、どれだけ呼べば気付いてくれるんだ。俺は、貴女が期待している人物じゃない。声だけが似た、まったく別人なんだ。
俺を愛して欲しい。他の誰でもない、俺を愛して欲しい。声に姿を投影しないで。貴女が寝言で名前を呼ぶ、涙を流す、その男じゃないんだ。
きっと俺はこれからも彼女の名前を呼ぶだろう。そのたびに期待に満ちた目に晒されるんだろう。そうしてすぐ失望に変わる、その変化に泣きたくなるんだ。
それでも良いんだ。だって俺は、彼女を愛しているんだ。だからこそ泣きたくなる。彼女は俺を見ていないから。俺の向こう側の誰かを見ているから。
どうか、俺を見てください。俺の名前を、呼んで下さい。
顔を覆っていた黒いベールを払いのけ、そうして見えたのは葬列だった。誰も彼も真っ黒な喪服に身を包んで黙々とどこかに向かって歩いている。緩やかな起伏の向こうには緑の草の茂った丘が見えた。葬列はそこまで続いていた。
無言の誰も彼もと同じように黙々と歩くわたしの目の前を、またベールが覆い隠す。視界が暗い。冷たい風がベールをはためかせ、そのたびに目に映る景色が暗くなり明るくなる。暗い、明るい、黒い、白い。モノクロフィルムを見ているような気分になる。沈黙は静寂。ひたすら足を動かすことは意識を朦朧とさせていく一つの作業に似ている。
丘が近付くにつれて、そこが列の終わりだということに気付いた。丘の頂上には棺があり、気付けば自分はその前に立っていた。列は円になって棺の周りを囲んでいた。周りを囲む人々は自分の見知った顔ばかりだった。けれど誰も何も言わず立ち尽くし、まるで喪服を着た人形のようだ。
誰かの手が背を押した。押されるがままに棺に一歩二歩と近付く。白い花で埋め尽くされた棺の中にはひとり、静かに手を組んで横たわっていた。ベールとは対照的な白い布が顔を隠している。風が止んで、ベールが視界を埋め尽くす。それをそっと手でよせて棺を見つめた。
周りで円を作る見知った顔の、その中に一人、いないことに気付いた。ああ、とため息のような声が自分の口から出た。朦朧としていた意識が一瞬で覚醒し、そしてまた曖昧になる。明瞭になる。
誰かがまた背を押した。その布を取るのだと無言で告げる。風が吹いた。揺れる。揺れる。それは草であり、喪服であり、布であり、ベールである。
ここにいるはずの自分が分からない。明瞭で曖昧な意識は黒いベールが象徴的。棺の中に人ひとり。周りを囲むその中にいないあの人は誰だ。
白い布で隠されたその顔を、さあ。
無言の誰も彼もと同じように黙々と歩くわたしの目の前を、またベールが覆い隠す。視界が暗い。冷たい風がベールをはためかせ、そのたびに目に映る景色が暗くなり明るくなる。暗い、明るい、黒い、白い。モノクロフィルムを見ているような気分になる。沈黙は静寂。ひたすら足を動かすことは意識を朦朧とさせていく一つの作業に似ている。
丘が近付くにつれて、そこが列の終わりだということに気付いた。丘の頂上には棺があり、気付けば自分はその前に立っていた。列は円になって棺の周りを囲んでいた。周りを囲む人々は自分の見知った顔ばかりだった。けれど誰も何も言わず立ち尽くし、まるで喪服を着た人形のようだ。
誰かの手が背を押した。押されるがままに棺に一歩二歩と近付く。白い花で埋め尽くされた棺の中にはひとり、静かに手を組んで横たわっていた。ベールとは対照的な白い布が顔を隠している。風が止んで、ベールが視界を埋め尽くす。それをそっと手でよせて棺を見つめた。
周りで円を作る見知った顔の、その中に一人、いないことに気付いた。ああ、とため息のような声が自分の口から出た。朦朧としていた意識が一瞬で覚醒し、そしてまた曖昧になる。明瞭になる。
誰かがまた背を押した。その布を取るのだと無言で告げる。風が吹いた。揺れる。揺れる。それは草であり、喪服であり、布であり、ベールである。
ここにいるはずの自分が分からない。明瞭で曖昧な意識は黒いベールが象徴的。棺の中に人ひとり。周りを囲むその中にいないあの人は誰だ。
白い布で隠されたその顔を、さあ。
あの日、真っ白なシャツを羽織って笑っていた女性は今、目の前でパールピンクのドレスを身にまとっていた。
剥き出しの肩や華奢な手足、白い首筋。記憶の中の全てと被る。地面が一瞬揺れたように感じたがそれは僕の錯覚で、ただ眩暈がしただけだった。
何のてらいもなく、僕は彼女が綺麗だと思った。そして次の瞬間にはそれがかき消えどうしようもない感情に襲われる。悲しみなのか、怒りなのか、諦めなのか。あるいはそれら全てかもしれない。ぐちゃぐちゃになった僕の心は顔に作った笑顔を貼り付けさせた。初めまして。嘘がすらすらと口から出てくる。
彼女もまた、何事もなかったかのように微笑んだ。あの日見せた少女のような笑顔ではない、大人びた微笑だった。
それではこれで、と一礼し、僕はゆっくりと彼女の横を通り過ぎようとした。その時、騒がしいパーティー会場の中で、彼女の小さな声がはっきりと聞こえた。
約束なら、交わしていないでしょう?
ああ、そうだな。静かに目を伏せた。そうして僕らは、今まで会ったことを全て忘れて歩いていく。
(タイトルが椎名氏なのに内容が黒/夢なのは何故)
剥き出しの肩や華奢な手足、白い首筋。記憶の中の全てと被る。地面が一瞬揺れたように感じたがそれは僕の錯覚で、ただ眩暈がしただけだった。
何のてらいもなく、僕は彼女が綺麗だと思った。そして次の瞬間にはそれがかき消えどうしようもない感情に襲われる。悲しみなのか、怒りなのか、諦めなのか。あるいはそれら全てかもしれない。ぐちゃぐちゃになった僕の心は顔に作った笑顔を貼り付けさせた。初めまして。嘘がすらすらと口から出てくる。
彼女もまた、何事もなかったかのように微笑んだ。あの日見せた少女のような笑顔ではない、大人びた微笑だった。
それではこれで、と一礼し、僕はゆっくりと彼女の横を通り過ぎようとした。その時、騒がしいパーティー会場の中で、彼女の小さな声がはっきりと聞こえた。
約束なら、交わしていないでしょう?
ああ、そうだな。静かに目を伏せた。そうして僕らは、今まで会ったことを全て忘れて歩いていく。
(タイトルが椎名氏なのに内容が黒/夢なのは何故)