目を閉じると他の感覚がよく冴える。瞼で覆われた羽住の世界を形作っているのは嗅覚と聴覚だ。甘く古ぼけた木の匂いと僅かに酸味を含んだ珈琲の匂い。液体が揺れる音と人の呼吸。
目を開ける。琥珀色の照明と飴色のアンティーク家具で統一された喫茶店の、一番端のカウンター席だった。頬杖をといて正面を向けば、無精髭を生やした男が羽住をじっと見ていた。
「なんですか、マスター」
「てっきり寝ているのかと思ってな」
寝るなら家で寝ろ学生、と、存外口の悪い喫茶店の店主はぷかりと煙草をふかした。バニラに似た甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「それ飲んだらさっさと帰れ。閉店だ」
言われて時計を見る。自分の時計が狂っていないことを確認して、羽住はため息をついた。
「ちゃんと仕事してくださいよ、まだ五時にもなってないじゃないですか」
不平を垂れたが、店主は素知らぬふりでそっぽを向いた。もう一度ため息をつきコーヒーカップを手に取る。中身はだいぶ冷めていた。ぬるい液体をほんの少し、口の中で転がすように味わい飲み干すと、穏やかな充足感が体を満たした。
カウンターの向こうで、店主の手が短くなった煙草を灰皿で潰していた。その彼の手が煙草の箱に伸びた。慣れた手つきで開けたその中に煙草はない。一瞬なんともいえない沈黙がカウンターに広がる。ちらりと羽住を見やった店主が発した言葉は、羽住の予想通りの言葉だった。
「買ってこい」
即座に返す。
「客におつかい頼まないでください」
店主が肩を竦めてみせた。思わず羽住も肩を竦めそうになったが、彼ほど動作が似合わなそうだったので止めた。代わりにもう一口、もう一口とコーヒーに口をつけた。
ドアに嵌った磨りガラスの向こう側は夕日色で染まっている。カウンターの向こう側とこちら側に沈黙が降りた。ふ、と小さく息をつくのが聞こえて視線を向けると、店主もまた羽住を見ていた。
「煙草ないからな、それ飲み終わったら閉店だぞ」
この店の主に言われたらそれはもはやどうしようもない。二つ返事で答えながら、残り半分を切ったコーヒーカップの中身を、ことさらゆっくり飲む作業に移った。
目を開ける。琥珀色の照明と飴色のアンティーク家具で統一された喫茶店の、一番端のカウンター席だった。頬杖をといて正面を向けば、無精髭を生やした男が羽住をじっと見ていた。
「なんですか、マスター」
「てっきり寝ているのかと思ってな」
寝るなら家で寝ろ学生、と、存外口の悪い喫茶店の店主はぷかりと煙草をふかした。バニラに似た甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「それ飲んだらさっさと帰れ。閉店だ」
言われて時計を見る。自分の時計が狂っていないことを確認して、羽住はため息をついた。
「ちゃんと仕事してくださいよ、まだ五時にもなってないじゃないですか」
不平を垂れたが、店主は素知らぬふりでそっぽを向いた。もう一度ため息をつきコーヒーカップを手に取る。中身はだいぶ冷めていた。ぬるい液体をほんの少し、口の中で転がすように味わい飲み干すと、穏やかな充足感が体を満たした。
カウンターの向こうで、店主の手が短くなった煙草を灰皿で潰していた。その彼の手が煙草の箱に伸びた。慣れた手つきで開けたその中に煙草はない。一瞬なんともいえない沈黙がカウンターに広がる。ちらりと羽住を見やった店主が発した言葉は、羽住の予想通りの言葉だった。
「買ってこい」
即座に返す。
「客におつかい頼まないでください」
店主が肩を竦めてみせた。思わず羽住も肩を竦めそうになったが、彼ほど動作が似合わなそうだったので止めた。代わりにもう一口、もう一口とコーヒーに口をつけた。
ドアに嵌った磨りガラスの向こう側は夕日色で染まっている。カウンターの向こう側とこちら側に沈黙が降りた。ふ、と小さく息をつくのが聞こえて視線を向けると、店主もまた羽住を見ていた。
「煙草ないからな、それ飲み終わったら閉店だぞ」
この店の主に言われたらそれはもはやどうしようもない。二つ返事で答えながら、残り半分を切ったコーヒーカップの中身を、ことさらゆっくり飲む作業に移った。
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