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Bernadette
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夏野と冬峰
→夏と冬
・六月、七月、八月、十二月、一月、二月
・雨と人魚と海、雪と遭難と雪解け
・日照雨にはもう遅く
・深海、沈没、浮上せず
・人魚姫は歌わない
・師が走る
・雪花
・積もる埋める溶ける解ける

・春瀬と秋山
→春と秋
・三月、四月、五月、九月、十月、十一月
・桜と花見と藤の花、残暑と月見と金木犀
・咲かぬ桜とその末路
・愚者の宴(四月)
・紫木を厭う
・去らぬ暑さと長月の夜
・兎は月面で薬屋の夢を見るか
・金木犀はただ咲くのみ
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女・二十代、カフェ店員、純情
男・三十代、サラリーマン、純情


 君からはコーヒーの香りがする、と言われた。
 白いシャツも黒いスラックスもカフェの香りが移り、まるで香水のように体にまとわりつく。それを隠すように羽織ったコートに彼は鼻を近づけ、すんすんと香りを嗅いでいた。子供じみた動作に小さく笑うと、男の綺麗な目と合った。

「なに?」
「子供みたいだなって」
「随分と大きな子供だ」

 横を駆けていったのは二人の子供だった。閉園が近づき始めた遊園地の、明るいライトが子供の背中を照らしていた。それを目で追うと、子供達は親らしき人影に突進していた。
 男と二人並んで歩く。めまいを起こしそうなほどきらきら輝くメリーゴーランドを通り過ぎ、目指すのは観覧車だ。仕事の後、ただ二人で歩くことすら幸福な気分になるのは浮かれ過ぎだろうか。ふと横の男に視線を向けると、彼からコーヒーの香りが漂った気がした。

「あなたからも」
「うん?」
「あなたからも、コーヒーのにおい」

 それをとらえたのは勘違いだったのだろうか。今度はスーツの袖を鼻に近づけ、男は首を傾げた。やはり子供のような動作だった。だが笑う顔は子供ではない。からかうように唇の端を持ち上げ、彼は囁く。

「君の匂いが移ったのかもしれない」

 一瞬で頬が熱くなったのが分かって顔を背けると、男が声に出さず笑う気配がした。勢いよく顔を背けたせいか、自分の髪の毛からコーヒーの香りが微かに漂った気がした。

 綺麗なものですね、と男は言う。
 白い着物を着たタマズサの髪を一房、シラヌイの手がとった。骨張った男の手は、まだ十歳といくらかを過ぎたくらいのタマズサのそれと比べれば格段に大きい。タマズサはシラヌイの手が好きだ。銀色の毛並みを思い出させる白い手だ。だが女のような弱さはない。彼の男らしい手は暖かい。
 焼けた色合いの尻尾を振る。タマズサは目を細めて彼の手を取った。それに頬を擦り寄せればシラヌイは優しく髪の毛を撫でてくれる。彼の隣で丸まって眠りたいと思ったが、そうすれば着物が乱れてしまうだろう。重く真っ白な着物をまた着る苦労を考えて止めた。

「きれい?」
「ええ、綺麗ですよ」

 お世辞でもなんでもない、彼の心からの言葉だと言うことをタマズサは知っている。彼は滅多に表情を崩さない。冷たい印象を受ける白い面は、しかし慣れたタマズサには怖いものではない。むしろ表情がかすかに揺れる、その小さな変化から彼がどう思っているのか読み取れるくらいには成長した。
 そして成長したタマズサの目は、彼の表情が僅かな悲しみに沈んでいるのを認めた。
 細やかな雨が降る音がする。空からは白い日差しが降り注ぎ、糸のように細い雨が反射する。日照雨だ。シラヌイの手がタマズサの小さな手から逃れて外に伸ばされ、雨を掴むように二、三度開閉する。ふわりと視界の端で揺れたのは、彼の銀色の尻尾だった。雨が気持ち良いのか、同じように銀色の耳も上下した。

「狐の嫁入り、ですね」

 いつもと変わらない調子を装った声は、しかしそうではない。タマズサは自らの体を見下ろした。まだ成熟しきっていない体に纏った白い着物は日差しのように眩しく、同時に忌々しい。
 だからタマズサは彼の手に縋るのだ。降り出した雨が止む頃、きっとタマズサは彼と引き離されてしまうだろう。嫁入りなどしたくはない。だが、それを口に出すことはタマズサには出来ない。既に決められたことはもう覆せないのだ。

「ねえ、シラヌイ」

 こうして甘えることが出来る時間は、もう残り少ない。
 ねえシラヌイ、連れてって。このまま手を握りしめて、どこかに連れ去って。飛び出しそうになった言葉を喉の奥で飲み込んだ。それを言ったら、彼は手を振り払ってしまうような気がしたのだ。飲み込んだ言葉が喉に突っかかって何も出てこない。呼びかけた言葉は宙に消える。
 それ以上言おうとしないタマズサの髪の毛を、シラヌイは撫で続ける。

「……タマズサさん」
「……うん」
「あなたは、とても綺麗です」

 男の手が髪を辿り、焦がした砂糖のような耳に触れた。壊れ物に触れるような手つきに悲しくなる。目の奥が熱かった。両手で彼の空いた手を包み込み、一層強く握りしめる。
 雨が去る気配が近付いている。日照雨が止めば、タマズサは嫁入りをする。

 身の丈に合わない木製の柄の、先端についた鋭い金属を振り下ろす。到底リズミカルとは言えない拙さで、小さな体中を使って、持ち上げては振り下ろし、持ち上げては振り下ろす。ツルハシの先端が固い地面に突き刺さり、そのたびに鈍い音を立てた。
 少女は無言で地面にツルハシをぶつけ続ける。真っ黒なアスファルトは時々小さな欠片となって飛び跳ねた。履き古した編み上げブーツはアスファルトと同じ黒で、それが時々混ざり合って、少女の足がアスファルトと繋がっているようにも見えた。ただ皮のてらてらとした輝きだけが、自分は地面とは違うのだと主張している。
 額を流れ、頬を滑り落ち、汗が一粒アスファルトに落下した。

「……」

 そこでようやく頭を上げ、ツルハシを動かす腕を止めた。少女はぜえぜえと荒い息を吐き、ツルハシを杖のようにしてそれに自分の体重を掛けた。黒く穿った地面を見つめ、大きく溜息を吐き、そのまま力が抜けたようにずるずると座り込む。穴を中心に蜘蛛の巣のように割れた地面は日差しを受けて暖かい。ツルハシから手を離して地面につければ、汗ばんだ手が更に熱を吸い込んでいくようだった。
 少女は恨めしそうに放り出されたツルハシを見、割れた地面を見、そして上を見上げる。

「つかれたあ」

 もう一度溜息をついてそう叫ぶと、馬鹿にしたような、からかうような、そんな響きを持った男の声が後ろから聞こえた。

「だから言ったろ、お前にゃ無理だ」

 少女より一回りも二回りも大きい男は腕を組み、もう点くことがないだろう街灯に体を預けていた。男は唇を歪めて笑う。カーゴパンツのポケットから手袋を取り出し自分の手にはめると、悠々とした足取りで少女に近づいてくる。
 少女が精一杯の力で持ち上げたツルハシを、彼は軽々と持ち上げ自分の肩に載せて見せた。手慣れた様子でツルハシをくるくる回し、もう片方の手で座り込んだ少女の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「ほれ、立ち上がれ。あとは俺がやる」

 そもそもこれは俺の仕事だからな、と肩を竦めた男に促され立ち上がる。熱い手のひらをはたくとぱらぱらとアスファルトの破片が落ちた。流れた汗を指先で拭い、少女は立っていた場所を男に譲る。車も人も通らない幅の広い道路の中央には、男と少女二人きりだった。
 色褪せ掠れた白線を踏みつけ、少女は道路の続く先を見た。どこまでも続くのではないか、と不安さえ抱く道を壊す男の真意を少女は知らない。ツルハシを振り下ろす男の横顔を見ながら、どこかに繋がっているのだろう道が途切れるのを淡々と眺めているだけだ。時折、持ち慣れないツルハシを持ち上げ男の仕事を遊び半分に手伝いながら。
 少女のそれより格段に重い音を立ててツルハシが地面に振り下ろされる。地面が割れる。道はもう続かないと叫ぶようにひび割れた。男の黒いブーツはアスファルトと同じ色をしていて、それは少女も同じだった。
 ツルハシが空を切り、地面を割る音がただ響く。
 ホワイトクリスマスというのが憧れだったのは、本当に昔のことのようだ。今では雪が降れば降るほど憂鬱になる。雪が降ると寒い。動きにくい。
 口に銜えていた煙草から、いつも以上に白い煙が上がる。手持ち無沙汰に腕時計を覗き込み、抱えていた無駄に大きな包みを揺らす。待ち合わせまであと三十分もある。寒空の下、何が悲しくてこんなポーズをとっているのだろうと考えると、緊張している自分が馬鹿らしく思えた。

(女子高生相手に何をしてるんだ、俺は)

 しかも、クリスマスの日にだ。若者の貴重な一日を、四十近い男が奪って良いのかという微妙な良心の呵責がある。それと同時に、何を考えてあの少女が自分とクリスマスを過ごしたいなどと言い出したのか、という疑問が浮かんできた。考え出すと止まらなくなるので、頭を振って追い出した。
 代わりに、一時間悩んで買ったプレゼントをどんな言葉とどんな顔で渡せば良いのか。それを考える。だが、きっと何を言っても少女は笑うだろう。年相応の笑顔で。
 それが容易く想像出来た。煙草を銜えたまま唇の端を持ち上げる。軽やかな足音が聞こえて振り向くと、待ち人が白い雪の中、小走りに駆け寄ってくるのが見えた。
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