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 綺堂の塾の教え子が死んだ。駅のホームから突き落とされたのだという。駅を通過する電車だったようで、その遺体は木っ端微塵で身元の判別も危ういところだった。
 事故ではなかった。誰かに押されて落ちた、その瞬間を見ていた人々が多くいるからだ。フードを深く被った細身の誰かが、その背を押したのだという。
 犯人は見つかっていない。

 ただの講師である綺堂はその生徒の葬式に参加する訳でもなく、一人少なくなった教室でいつも通りの授業をした。淡々と話し、数式を解かせ、解説した。講師室に戻っても同様で、担当クラスの進捗状況や各生徒の小テストや宿題の具合をメモした。ほかの講師たちと当たり障りのない話をし、そして塾をあとにした。
 駅まで歩く道すがら、死んだ生徒がどんな生徒だったのか、思い出した。ごくごくふつうの少女だった。数学が苦手でいつも五十点をとるかとらないの成績だったはずだ。髪が長く、わずかに脱色していた。携帯電話をいじり、ほかの女子生徒と楽しげに話していた。それは授業中も授業外も同じで、授業中の私語には綺堂もわずかながら困っていた。
 逆に言えばそれくらいしか思い浮かばなかった。その少女の人となりはそれ以上わからない。優しかったのか短気だったのか好きなアイドルはいたのか趣味は何だったのか。
 思考を止める。信号が青になり、早足で横断歩道を渡った。もうやめよう、と頭を振った。考えてもどうしようもないことを続けても意味がないのはわかりきったことだった。身近な他人が死ぬことに動揺し、頭が固まっているだけだと綺堂自身も自覚していた。冷静になろうと深呼吸をする。ただ、背中に冷たい物を流し込まれたかのような感覚を覚えた。
 駅に入ると帰宅者の波に飲み込まれた。スーツ姿の男女の間をくぐってホームに向かう。あと五分で電車がくる。
 あの少女もこうやって電車に乗ろうとしていたのか、ふと思った。振り向いた先に綺堂の背を押す者などいない。いてもそうだとはわからないだろう。人がいつ死ぬかなど誰にも知ることは出来ない。それでいいのだと言い聞かせた。突き落とされて死んだ少女の顔が一瞬思い浮かんですぐ消えた。
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