ギイ、ギイ、と音がする。こういう時は、目を開いてはいけない。
異臭。それは幻だと言い聞かせる。妙に鼻が利いてしまうこの体質が恨めしい。張り替えたばかりの青い畳の匂いが、どす黒く変わってしまったようだ。心なしか部屋の空気が冷たい。エアコンは確かに効いているが、それとは違う、薄ら寒さが私の肌を粟立たせる。
もぞ、と動くのは、私の隣に眠る相棒だ。妙に神経の図太い彼はきっと、この空間の変化に気付かず眠り続けているのだろう。うらやましいことだ。ため息をつきそうになって止める。代わりに布団の中に潜り込んだ。私の体温を吸い込んで生ぬるい布が、今だけは心強い味方だった。
音がする方向へ、顔を向けてはいけない。目を開いてはいけない。見ては、いけない。私は自分に言い聞かせる。背筋を冷たい汗が流れた。目を開けていないので何時なのか分からない。部屋の状況が分からない。分からないことに囲まれるのは恐ろしい。ただ一刻も早く朝が来れば良い。祈る気持ちで体を丸める。
吐息が聞こえた。やはり相棒は、眠り続けているらしかった。どうせなら私も彼くらい、深い眠りにつきたいものだ。
たとえ真夏であろうと、山中の朝は肌寒い。勢いよくカーテンが引かれ、ついで窓が開け放たれる。そうすると、冷房とはまた違った冷たい空気が部屋に流れ込んできた。新鮮な緑の匂いだ。山の空気は澄んでいて気持ちが良い。
布団に寝ころんだまま、光が差し込む窓辺をぼんやり眺める。カーテンと窓を開けた本人は、そのままさっさと窓辺から自分の荷物を置いたところへ移動した。長い髪が動きに合わせて軌跡を描く。手触りの良さそうな黒髪だ、と考えたところで、馬鹿馬鹿しくなって体を起こした。
「おう、起きたか」
黒髪の主は事も無げに私を見やり、洗面用具を片手に部屋を出ていった。声をかける隙もなかったが、それはただ単に寝起きの私の反応速度の問題だ。いまいち血圧が上がらない私は、寝起きがひどく悪い。おそらく気を抜けばまた布団に戻ることになるだろう。それはそれで魅力的だが、あいにく今は二度寝できる環境ではない。時計を見れば、六時三十七分、七時までもう少しだった。朝食は七時から、この宿の一階の食堂でとることになっている。
まるで衣服の脱着を覚え始めた幼児のごとく、もそもそと動いて寝間着からポロシャツとジーンズに着替えた。靴下を履こうと座りながら前傾姿勢をとったところで、何を間違えたかそのまま布団に横に転がった。それに羞恥心を覚える、ことはない。いつものことだ。寝起きは自分でも、何をしているのか分からないことをしてしまう。
年代物の扉が開き、顔を洗ってきたのだろう彼が戻ってくる。体を丸めるように横になった私を見て呆れたらしい。ずかずかと布団の上を歩いて彼は近くに寄ってきた。
「何やってんだよナギ」
「……おはようございます、よみさか」
「ああおはよう。だが俺が言いたいのはそこじゃない」
何、と言われても、靴下を履こうとして失敗しただけだ。見て分からないのか。まあ分からないだろう、世御坂はすらりと長く伸びた足を躊躇い無く私の横腹に乗せた。体重がのっていないので重くはないが、圧迫感はある。そしてそこでようやく気付いたが、世御坂はすでに着替え終わっているようだった。
ぐりぐりと生足が私の脇腹をえぐるように動く。マッサージのようだがどうせマッサージをするなら、背中をやってもらいたい。
「ほら起きろ。飯だ」
「……」
「衆人環視の中の飯だ。喜べナギ。今日は朝からカツを揚げてくれたらしい」
もしや洗顔ついでに食堂に行ってきたのだろうか。相棒の行動力には目を見張るしかない。だが朝からカツとは、私や世御坂は良いとしても、他の女性陣はどうなのだろうか。あと衆人環視は冗談ではないので止めてほしい。私は目立たずひっそりと生きていきたい。
世御坂の足に体重がかかる。
「あと五分で七時だ」
「……はい」
「さっさと靴下履けよ、転がってないで」
幸か不幸か、世御坂は私の行動の意味をちゃんと分かってくれていたらしい。それはそれで良いのだが、さっさと足をどけてほしい。起きあがろうにも起きあがれない。
タイミングを見計らったように、世御坂の足がよせられる。むくりと起きあがった私の目の前に立っているのは、少しばかり目つきの鋭い美女だった。
「……おはようございます」
「おはよう」
ジーンズのホットパンツから惜しげもなく晒された足は余分な筋肉も脂肪もなく、傷すらない。ミントグリーンのキャミソールは後ろでリボンが結ばれ、長い黒髪がまとめられたおかげで白いうなじがよく見えた。夏とはいえさすがに涼しいからか、手にはカーディガンらしきものを持っていた。
モデルもかくやと言わんばかりの脚線美と引き締まった体に、化粧せずとも白い肌、薄桃色の唇。とはいえノーメイクは趣味じゃないと常日頃から言っている世御坂のことだ、うっすらとだが化粧をしているのだろう。さすがにそういうものと縁のない私には、よく分からないのだが。
なんとなく、残念だと思う。遠目から見れば、いや、近くで見ても、違和感のほとんどないその外見に。
「よし、行くぞ」
靴下を無事履き終えた私を引きずるように、世御坂が襟元を掴む。とんでもない力だ。180cmを優に越える私をなんでもないかのように引っ張る力は、到底ふつうの女性とは思えない。艶やかだが高くない、むしろ女性としてはかなり低い声に、出た喉仏、そして膨らみのない胸部。なんとなく残念だ。
まあ、それも当然のことだ。世御坂はれっきとした男なのだから。
異臭。それは幻だと言い聞かせる。妙に鼻が利いてしまうこの体質が恨めしい。張り替えたばかりの青い畳の匂いが、どす黒く変わってしまったようだ。心なしか部屋の空気が冷たい。エアコンは確かに効いているが、それとは違う、薄ら寒さが私の肌を粟立たせる。
もぞ、と動くのは、私の隣に眠る相棒だ。妙に神経の図太い彼はきっと、この空間の変化に気付かず眠り続けているのだろう。うらやましいことだ。ため息をつきそうになって止める。代わりに布団の中に潜り込んだ。私の体温を吸い込んで生ぬるい布が、今だけは心強い味方だった。
音がする方向へ、顔を向けてはいけない。目を開いてはいけない。見ては、いけない。私は自分に言い聞かせる。背筋を冷たい汗が流れた。目を開けていないので何時なのか分からない。部屋の状況が分からない。分からないことに囲まれるのは恐ろしい。ただ一刻も早く朝が来れば良い。祈る気持ちで体を丸める。
吐息が聞こえた。やはり相棒は、眠り続けているらしかった。どうせなら私も彼くらい、深い眠りにつきたいものだ。
たとえ真夏であろうと、山中の朝は肌寒い。勢いよくカーテンが引かれ、ついで窓が開け放たれる。そうすると、冷房とはまた違った冷たい空気が部屋に流れ込んできた。新鮮な緑の匂いだ。山の空気は澄んでいて気持ちが良い。
布団に寝ころんだまま、光が差し込む窓辺をぼんやり眺める。カーテンと窓を開けた本人は、そのままさっさと窓辺から自分の荷物を置いたところへ移動した。長い髪が動きに合わせて軌跡を描く。手触りの良さそうな黒髪だ、と考えたところで、馬鹿馬鹿しくなって体を起こした。
「おう、起きたか」
黒髪の主は事も無げに私を見やり、洗面用具を片手に部屋を出ていった。声をかける隙もなかったが、それはただ単に寝起きの私の反応速度の問題だ。いまいち血圧が上がらない私は、寝起きがひどく悪い。おそらく気を抜けばまた布団に戻ることになるだろう。それはそれで魅力的だが、あいにく今は二度寝できる環境ではない。時計を見れば、六時三十七分、七時までもう少しだった。朝食は七時から、この宿の一階の食堂でとることになっている。
まるで衣服の脱着を覚え始めた幼児のごとく、もそもそと動いて寝間着からポロシャツとジーンズに着替えた。靴下を履こうと座りながら前傾姿勢をとったところで、何を間違えたかそのまま布団に横に転がった。それに羞恥心を覚える、ことはない。いつものことだ。寝起きは自分でも、何をしているのか分からないことをしてしまう。
年代物の扉が開き、顔を洗ってきたのだろう彼が戻ってくる。体を丸めるように横になった私を見て呆れたらしい。ずかずかと布団の上を歩いて彼は近くに寄ってきた。
「何やってんだよナギ」
「……おはようございます、よみさか」
「ああおはよう。だが俺が言いたいのはそこじゃない」
何、と言われても、靴下を履こうとして失敗しただけだ。見て分からないのか。まあ分からないだろう、世御坂はすらりと長く伸びた足を躊躇い無く私の横腹に乗せた。体重がのっていないので重くはないが、圧迫感はある。そしてそこでようやく気付いたが、世御坂はすでに着替え終わっているようだった。
ぐりぐりと生足が私の脇腹をえぐるように動く。マッサージのようだがどうせマッサージをするなら、背中をやってもらいたい。
「ほら起きろ。飯だ」
「……」
「衆人環視の中の飯だ。喜べナギ。今日は朝からカツを揚げてくれたらしい」
もしや洗顔ついでに食堂に行ってきたのだろうか。相棒の行動力には目を見張るしかない。だが朝からカツとは、私や世御坂は良いとしても、他の女性陣はどうなのだろうか。あと衆人環視は冗談ではないので止めてほしい。私は目立たずひっそりと生きていきたい。
世御坂の足に体重がかかる。
「あと五分で七時だ」
「……はい」
「さっさと靴下履けよ、転がってないで」
幸か不幸か、世御坂は私の行動の意味をちゃんと分かってくれていたらしい。それはそれで良いのだが、さっさと足をどけてほしい。起きあがろうにも起きあがれない。
タイミングを見計らったように、世御坂の足がよせられる。むくりと起きあがった私の目の前に立っているのは、少しばかり目つきの鋭い美女だった。
「……おはようございます」
「おはよう」
ジーンズのホットパンツから惜しげもなく晒された足は余分な筋肉も脂肪もなく、傷すらない。ミントグリーンのキャミソールは後ろでリボンが結ばれ、長い黒髪がまとめられたおかげで白いうなじがよく見えた。夏とはいえさすがに涼しいからか、手にはカーディガンらしきものを持っていた。
モデルもかくやと言わんばかりの脚線美と引き締まった体に、化粧せずとも白い肌、薄桃色の唇。とはいえノーメイクは趣味じゃないと常日頃から言っている世御坂のことだ、うっすらとだが化粧をしているのだろう。さすがにそういうものと縁のない私には、よく分からないのだが。
なんとなく、残念だと思う。遠目から見れば、いや、近くで見ても、違和感のほとんどないその外見に。
「よし、行くぞ」
靴下を無事履き終えた私を引きずるように、世御坂が襟元を掴む。とんでもない力だ。180cmを優に越える私をなんでもないかのように引っ張る力は、到底ふつうの女性とは思えない。艶やかだが高くない、むしろ女性としてはかなり低い声に、出た喉仏、そして膨らみのない胸部。なんとなく残念だ。
まあ、それも当然のことだ。世御坂はれっきとした男なのだから。
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