「若いねえ」
カウンターに並べられた数枚の写真をつまみ上げ、夏生は言った。呆れたような感心したような、どちらともとれる声だ。奈々子はそりゃそうでしょう、と返す。三十路を越えてそろそろ中年に向かいつつある男と高校生のどちらが若いかなど、比べるまでもない。
夏生の手から写真を取り上げ、一枚一枚確認しながら二つの山に分けた。人に渡す物と、誰にも見せない、言わば没の山にだ。カメラの扱いには慣れ、ピントが合っていない物や手ぶれを起こしている物は減りつつある。あとは被写体の視線がきちんとこちらを向いているか、あるいは画面のバランスが良いか、それを中心に分けていく。
夏生はその作業を見ながら、時々口を挟む。プロの言うことに間違いはない。奈々子はそれに従って自分の判断を直す。数年間、変わらず続けられている作業は長い時間は掛からない。
カウンターに並べられた数枚の写真をつまみ上げ、夏生は言った。呆れたような感心したような、どちらともとれる声だ。奈々子はそりゃそうでしょう、と返す。三十路を越えてそろそろ中年に向かいつつある男と高校生のどちらが若いかなど、比べるまでもない。
夏生の手から写真を取り上げ、一枚一枚確認しながら二つの山に分けた。人に渡す物と、誰にも見せない、言わば没の山にだ。カメラの扱いには慣れ、ピントが合っていない物や手ぶれを起こしている物は減りつつある。あとは被写体の視線がきちんとこちらを向いているか、あるいは画面のバランスが良いか、それを中心に分けていく。
夏生はその作業を見ながら、時々口を挟む。プロの言うことに間違いはない。奈々子はそれに従って自分の判断を直す。数年間、変わらず続けられている作業は長い時間は掛からない。
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覗き込んだ目の色に一瞬心を奪われた。暗色の虹彩は近付くと灰色がかっているように見えた。不思議な色だった。
ノイズ、ノイズ、ノイズ。耳に届いた声は雑音混じりでよく聞こえない。相手が何を言おうとしているのか聞き取ろうと全ての神経を耳に集中させる。だけど声は聞こえない。ただ相手の呼吸と、誰とも区別のつかない音の嵐。
息を吸う。息を吐く。そういう営みを無視するかのように灰色の瞳。綺麗だ。ほんとうだ、綺麗だ。くらくらする。眩暈がする。そして頭が痛い。あたしの中をぐるぐると、たくさんのものが渦巻いている。
灰色の目をしたその人は笑う。唇を少しだけ動かして。手にしていた本が滑り落ちて床に落ちた。音は大きかったのに少しも響かなかった。図書室は静かなのにとてもうるさい。雨が降っている。
透明なガラスが濡れている。あたしの眼球の表面を、同じように涙が濡らす。目の前の灰色の目もそうなのかしら。
伸びた爪、細い指、白い手首。手首にぶら下がる銀色の時計がたてる音、本の匂い、雨の気配。頭痛。まるで意識を途切れさせようとするように痛む頭。現実をジャミングしているのです。そっと触れた。それだけだった。踊るような足取り、軽やかなステップ、誰もいない廊下へ。
少しだけ濡れた廊下はステップを踏む度に音高く叫ぶ。あたしも叫びたかった。でもきっと叫んじゃいけない。踊る人達が誰一人として声を上げないように、あたしも声を上げず綺麗に笑っていなきゃいけない。誰がそう決めたかってあたしにも分からないけど。そういうものなんでしょう、だってあたしの周りの人達は、あたしが綺麗でおとなしくて清純で、そういうイメージを勝手に抱いてあたしになにかを期待している。そしてイメージが崩れたら、唾を吐いてさっさと消えてしまうのだ。残るのはぼろぼろになったイメージを必死で直そうとする、醜いあたしだけだ。
だけどあたしだってほんとうは、そんな綺麗なものじゃない。あたしは観賞用の人形じゃない。あたしだって、恋をする。
ノイズ、ノイズ、ノイズ。耳に届いた声は雑音混じりでよく聞こえない。相手が何を言おうとしているのか聞き取ろうと全ての神経を耳に集中させる。だけど声は聞こえない。ただ相手の呼吸と、誰とも区別のつかない音の嵐。
息を吸う。息を吐く。そういう営みを無視するかのように灰色の瞳。綺麗だ。ほんとうだ、綺麗だ。くらくらする。眩暈がする。そして頭が痛い。あたしの中をぐるぐると、たくさんのものが渦巻いている。
灰色の目をしたその人は笑う。唇を少しだけ動かして。手にしていた本が滑り落ちて床に落ちた。音は大きかったのに少しも響かなかった。図書室は静かなのにとてもうるさい。雨が降っている。
透明なガラスが濡れている。あたしの眼球の表面を、同じように涙が濡らす。目の前の灰色の目もそうなのかしら。
伸びた爪、細い指、白い手首。手首にぶら下がる銀色の時計がたてる音、本の匂い、雨の気配。頭痛。まるで意識を途切れさせようとするように痛む頭。現実をジャミングしているのです。そっと触れた。それだけだった。踊るような足取り、軽やかなステップ、誰もいない廊下へ。
少しだけ濡れた廊下はステップを踏む度に音高く叫ぶ。あたしも叫びたかった。でもきっと叫んじゃいけない。踊る人達が誰一人として声を上げないように、あたしも声を上げず綺麗に笑っていなきゃいけない。誰がそう決めたかってあたしにも分からないけど。そういうものなんでしょう、だってあたしの周りの人達は、あたしが綺麗でおとなしくて清純で、そういうイメージを勝手に抱いてあたしになにかを期待している。そしてイメージが崩れたら、唾を吐いてさっさと消えてしまうのだ。残るのはぼろぼろになったイメージを必死で直そうとする、醜いあたしだけだ。
だけどあたしだってほんとうは、そんな綺麗なものじゃない。あたしは観賞用の人形じゃない。あたしだって、恋をする。
彼が学校を辞めたというのを知ったのは、それから数ヶ月経った後だった。
辞めた理由というのは分からない。成績が特別悪かった訳でもなく、講義を休みがちだった訳でもない。本当に、唐突に、辞めたらしい。
彼を知っている人はたくさんいたけれど、誰一人として彼のその後を知っている人はいなかった。いや、いたのかもしれないけれど、私が言葉を交わした人達の中では誰も知らなかった。顔見知りにしてはよく話し、けれど友人と呼ぶには距離があるような、そういう関係ばかりだった。そしてきっと私もその中の一人なのだろう、彼にとっては。
しばらく心のどこかにぽっかりと穴が空いたようなそんな気分だった。塞ぎ込んではいなかったけれど、彼が座っていたベンチを見る度に泣きたいような気分になった。そのたびに私は目を無理矢理動かして正面を見た。猫はどこにもいなかった。
辞めた理由というのは分からない。成績が特別悪かった訳でもなく、講義を休みがちだった訳でもない。本当に、唐突に、辞めたらしい。
彼を知っている人はたくさんいたけれど、誰一人として彼のその後を知っている人はいなかった。いや、いたのかもしれないけれど、私が言葉を交わした人達の中では誰も知らなかった。顔見知りにしてはよく話し、けれど友人と呼ぶには距離があるような、そういう関係ばかりだった。そしてきっと私もその中の一人なのだろう、彼にとっては。
しばらく心のどこかにぽっかりと穴が空いたようなそんな気分だった。塞ぎ込んではいなかったけれど、彼が座っていたベンチを見る度に泣きたいような気分になった。そのたびに私は目を無理矢理動かして正面を見た。猫はどこにもいなかった。
走っていた。
何に追われているかも分からず、ただ走っていた。足の裏が地面を踏みつけ、息が上がって酸素が回らない。頭も、腹も、体のその辺り全てが痛かった。ぬるぬるとした感触がした。額から流れた汗と、目から零れた涙だった。
後ろをひたひたとついてくるのは一体何なのか、振り返る余裕もなく、勇気もない。黒崎はただ走った。髪の毛が針金のように肌を突き刺し、そのたびちりちりとした痛みが感覚として残る。汗でべたついた肌に服が更に張り付いてくる。やめてくれ。誰に対してなのか、何に対してなのか、黒崎自身にも分からない言葉を張り上げた。声は真っ正面の暗闇に飲み込まれていく。気付けば周りは全て暗闇だった。自分の体だけが、光を発している訳でもないのにはっきりとした輪郭を持っていた。走っている地面も本当に存在しているのか定かではない。ぞっとした。悪寒と疲れに足が止まりそうになり、必死になって自分の体を動かした。
やがて足音がなくなった。ただしそれは自分の足音だけだった。裸足でフローリングを歩くような微かな足音だけが鮮明に聞こえた。次に黒崎自身の呼吸が聞こえなくなった。切れた息がまったく感じられなくなり、自分の耳が狂ってしまったのかと不安になる。だがそれは杞憂で、いまだに足音は聞こえていた。
足音は止まない。静かにゆっくりと、だがしかし確実に近付いていた。やめてくれ。もう一度叫んだ。発したはずの声はどこにも響かず、暗闇に消える。見下ろした自分の足が動いていないことに気付いた。それは動いていないというよりは、消えかかっているといった方が正確だった。恐怖が喉元までせり上がってきている。それでも伸ばした手は、指先から消えかかっていた。
足音が聞こえる。
何に追われているかも分からず、ただ走っていた。足の裏が地面を踏みつけ、息が上がって酸素が回らない。頭も、腹も、体のその辺り全てが痛かった。ぬるぬるとした感触がした。額から流れた汗と、目から零れた涙だった。
後ろをひたひたとついてくるのは一体何なのか、振り返る余裕もなく、勇気もない。黒崎はただ走った。髪の毛が針金のように肌を突き刺し、そのたびちりちりとした痛みが感覚として残る。汗でべたついた肌に服が更に張り付いてくる。やめてくれ。誰に対してなのか、何に対してなのか、黒崎自身にも分からない言葉を張り上げた。声は真っ正面の暗闇に飲み込まれていく。気付けば周りは全て暗闇だった。自分の体だけが、光を発している訳でもないのにはっきりとした輪郭を持っていた。走っている地面も本当に存在しているのか定かではない。ぞっとした。悪寒と疲れに足が止まりそうになり、必死になって自分の体を動かした。
やがて足音がなくなった。ただしそれは自分の足音だけだった。裸足でフローリングを歩くような微かな足音だけが鮮明に聞こえた。次に黒崎自身の呼吸が聞こえなくなった。切れた息がまったく感じられなくなり、自分の耳が狂ってしまったのかと不安になる。だがそれは杞憂で、いまだに足音は聞こえていた。
足音は止まない。静かにゆっくりと、だがしかし確実に近付いていた。やめてくれ。もう一度叫んだ。発したはずの声はどこにも響かず、暗闇に消える。見下ろした自分の足が動いていないことに気付いた。それは動いていないというよりは、消えかかっているといった方が正確だった。恐怖が喉元までせり上がってきている。それでも伸ばした手は、指先から消えかかっていた。
足音が聞こえる。
空からちらちらと、白い雪が落ちてきている。冬の空気を孕んだそれは静かに落ちてナナオの肩に白く残った。紺色のブレザーに落ちた雪は少しの間だけ白いままで、あとはゆっくり溶けていく。溶けて、紺色に冷たい水になって残る。
「泣いたり、笑ったり、そういうのが綺麗に撮れると嬉しいじゃないですか」
曇りのない笑顔で夏生は言う。佳乃はただ苦笑した。この少年のような純粋さを持っていない自分に微かな嫌悪と、諦めに似た感情がよぎる。夏生は出来上がった写真をきらきらとした目で見ていた。
煙草を吸いたいな、と思った。一ヶ月に一本吸うかどうかの煙草はおそらく、佳乃のベッドの下に転がっている。取りに行くのは面倒だったし、吸おうとしても店の中では吸ってはいけない。仕方なく諦め、座っていた椅子の背もたれに体を預けた。
「気に入った写真は撮れた?」
「ん、多分」
佳乃を呼んだ父は一人で幕を張り替えようとしていた。慌てて彼へ走りより、一緒になって取り替え作業をした。持った瞬間これを一人でやるのは無理だろう、とため息をつきそうになった。撮影所用の幕は手触りが良く高級感が溢れているが、その反面ひどく重い。いくら父でもさすがに一人で無理だっただろう。
あっちを上げろこっちを上げろと言われるままに幕を持ち上げ、終わった頃には冬にもかかわらず汗だらけだった。
「泣いたり、笑ったり、そういうのが綺麗に撮れると嬉しいじゃないですか」
曇りのない笑顔で夏生は言う。佳乃はただ苦笑した。この少年のような純粋さを持っていない自分に微かな嫌悪と、諦めに似た感情がよぎる。夏生は出来上がった写真をきらきらとした目で見ていた。
煙草を吸いたいな、と思った。一ヶ月に一本吸うかどうかの煙草はおそらく、佳乃のベッドの下に転がっている。取りに行くのは面倒だったし、吸おうとしても店の中では吸ってはいけない。仕方なく諦め、座っていた椅子の背もたれに体を預けた。
「気に入った写真は撮れた?」
「ん、多分」
佳乃を呼んだ父は一人で幕を張り替えようとしていた。慌てて彼へ走りより、一緒になって取り替え作業をした。持った瞬間これを一人でやるのは無理だろう、とため息をつきそうになった。撮影所用の幕は手触りが良く高級感が溢れているが、その反面ひどく重い。いくら父でもさすがに一人で無理だっただろう。
あっちを上げろこっちを上げろと言われるままに幕を持ち上げ、終わった頃には冬にもかかわらず汗だらけだった。