夏野がその時計を見つけたのは、冬峰が倉庫にしている一室の棚の中だった。大事そうに白い箱に布に包んで入れられた時計は男物で、箱の黄ばみ具合や時計のデザインから古い物であることは明らかだった。時計は六時十二分を指して止まっていた。日付は四日だ。デザインは古めかしいが、良い時計であることは夏野にも分かった。おそらく高級品だろうということも感じた。
その時計が一体どんな物なのか、冬峰に聞こうと思ったのはただの好奇心からだった。
冬峰は夏野が持ってきた時計を見て目を眇めた。懐かしむように布を取り払い、壊れ物を扱う手つきで時計のベルトを持った。くすんだ銀色の時計盤を指先でなぞる。穏やかな表情でソファーに座った冬峰は、やはり穏やかな声をしていた。
「私の友人の時計だ。さして珍しくもない、どこにでもある、まあそれなりの値段がする時計だな」
「いただいたんですか」
「遺品としてな」
撫でていた時計盤を、今度は指先で軽く叩いた。
「自殺だったが。良いヤツだったよ、だが馬鹿なヤツだった。もう少しで結婚式を挙げるという時に、妻になる女性を残して飛び降りた。その時女性の腹には子供がいたらしい」
「彼は知っていた?」
「いいや知らなかった。女性もヤツが死んでから気付いたという。そしてその女性も、子供を産んでまもなく死んだ。同じ場所から飛び降りたらしい」
動いていた指が止まる。
「何かを抱えていたのかも知れない。だが、最後までそれを誰かに見せてはくれなかったよ」
「…………」
「話したところで助けてくれる訳も無いと知っていたんだろうな。それでも私は未だに思う」
慈しむように時計を手のひらで包んだ、冬峰は確かに笑っていた。夏野が初めて見る、悲しげな微笑だった。
「ほんの少しでも良い、私に言ってくれれば良かったのに」
「……冬峰、さん」
かける言葉が見つからず、ただ名前を呼んで夏野は黙った。目を伏せた冬峰は時計を静かにテーブルに置いた。時計の針は少しも進んでいない。それを一瞥して、冬峰は立ち上がった。
さっきまで浮かべていた悲しげな表情は微塵も残っていなかった。いつもと同じ、無表情には見えない無表情でいつものように扇子を開く。
「さあ、仕事だ」
その時計が一体どんな物なのか、冬峰に聞こうと思ったのはただの好奇心からだった。
冬峰は夏野が持ってきた時計を見て目を眇めた。懐かしむように布を取り払い、壊れ物を扱う手つきで時計のベルトを持った。くすんだ銀色の時計盤を指先でなぞる。穏やかな表情でソファーに座った冬峰は、やはり穏やかな声をしていた。
「私の友人の時計だ。さして珍しくもない、どこにでもある、まあそれなりの値段がする時計だな」
「いただいたんですか」
「遺品としてな」
撫でていた時計盤を、今度は指先で軽く叩いた。
「自殺だったが。良いヤツだったよ、だが馬鹿なヤツだった。もう少しで結婚式を挙げるという時に、妻になる女性を残して飛び降りた。その時女性の腹には子供がいたらしい」
「彼は知っていた?」
「いいや知らなかった。女性もヤツが死んでから気付いたという。そしてその女性も、子供を産んでまもなく死んだ。同じ場所から飛び降りたらしい」
動いていた指が止まる。
「何かを抱えていたのかも知れない。だが、最後までそれを誰かに見せてはくれなかったよ」
「…………」
「話したところで助けてくれる訳も無いと知っていたんだろうな。それでも私は未だに思う」
慈しむように時計を手のひらで包んだ、冬峰は確かに笑っていた。夏野が初めて見る、悲しげな微笑だった。
「ほんの少しでも良い、私に言ってくれれば良かったのに」
「……冬峰、さん」
かける言葉が見つからず、ただ名前を呼んで夏野は黙った。目を伏せた冬峰は時計を静かにテーブルに置いた。時計の針は少しも進んでいない。それを一瞥して、冬峰は立ち上がった。
さっきまで浮かべていた悲しげな表情は微塵も残っていなかった。いつもと同じ、無表情には見えない無表情でいつものように扇子を開く。
「さあ、仕事だ」
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覗き込んだ目の色に一瞬心を奪われた。暗色の虹彩は近付くと灰色がかっているように見えた。不思議な色だった。
ノイズ、ノイズ、ノイズ。耳に届いた声は雑音混じりでよく聞こえない。相手が何を言おうとしているのか聞き取ろうと全ての神経を耳に集中させる。だが、声は聞こえない。ただ相手の呼吸と、誰とも区別のつかない声の嵐だけだった。
伸びた爪、細い指、白い手首。手首にぶら下がる銀色の時計がたてる音、本の匂い、雨の気配。頭痛。まるで意識を途切れさせようとするように痛む頭。現実をジャミングしているのです。踊るような足取り、軽やかなステップ、誰もいない廊下へ。
ちりちりと焦燥感に似た痛みが頭の端を囓る。雨が降っている。傘は持ってきていない。
いつ死ぬか分かっていたら、突然のことに悲しまなくて済むよなあ。
ねえ、教えて欲しいのだけど。私は一体、いつ死ぬのかしら?
ノイズ、ノイズ、ノイズ。耳に届いた声は雑音混じりでよく聞こえない。相手が何を言おうとしているのか聞き取ろうと全ての神経を耳に集中させる。だが、声は聞こえない。ただ相手の呼吸と、誰とも区別のつかない声の嵐だけだった。
伸びた爪、細い指、白い手首。手首にぶら下がる銀色の時計がたてる音、本の匂い、雨の気配。頭痛。まるで意識を途切れさせようとするように痛む頭。現実をジャミングしているのです。踊るような足取り、軽やかなステップ、誰もいない廊下へ。
ちりちりと焦燥感に似た痛みが頭の端を囓る。雨が降っている。傘は持ってきていない。
いつ死ぬか分かっていたら、突然のことに悲しまなくて済むよなあ。
ねえ、教えて欲しいのだけど。私は一体、いつ死ぬのかしら?
やりきれない気分だった。
時速百キロで流れていく景色は光が尾を引いていた。ネオンの輝きが目に痛い。ガラスに映った少年の顔は不機嫌そうだった。頬にガーゼを貼った少年は、まぎれもない自分自身だった。癖の強い髪は顔の横辺りだけ少し長い。横髪を掻き上げ耳を露出させると、白い耳たぶに小さな穴が開いていた。数ヶ月前に開けたピアス穴は、日々塞がっていく。
やりきれない気分だった。ガラスから顔を背けると、自分の横にライターと煙草の箱が置かれているのに気付いた。運転席の男が放ったのかもしれない。黒地に緑のラインが入った煙草だ。健康に悪いのだというメッセージが奇妙に明るく浮かんでいた。過ぎ去った街灯が一瞬だけ車内を照らした。パッケージのセロハンが真っ白に光ってまた真っ黒に戻った。
手を伸ばした。黒い箱は軽かった。蓋をあけようとする指が震えていた。小さく舌打ちをして、その震えを見なかったことにした。ことさらゆっくりとした動作で一本取りだし、口に銜えた。かちかちと音をたててライターに火をともす。車内の空調で小さな火はゆらゆら揺れた。口に銜えた煙草に火を近づけ、炙る。
「そうじゃない」
今まで黙っていた、運転席の男の声だった。驚きに手からライターが落ちそうになった。咎められるだろうか、という気まずい思いと、何故いきなりこんなことをしてしまったのかという罪悪感がよぎった。
だが、運転席の男は叱るでもなく、バックミラーで少年を見ながら淡々とした声で続けた。
「炙るだけじゃダメなんだ。それだと不味くなる」
「…………」
「銜えて……ライター近づけて、火ィつけて、そう、息を吸う」
いつも男がしているように中指と薬指で煙草を挟み、先端に火を近づけた。揺れるライターの火は空調のせいだけではない。吸った息には煙草の匂いが混ざっていた。喉を突く煙の感触と、舌を刺激する甘い香り。吸ったのは一瞬で、すぐに口から離して咳き込んだ。喉の奥が痛んだ。
指に挟んだ煙草からは、白い煙があがっている。
「初めての煙草はどうだ?」
咳き込む少年をからかうでもなく、運転席の男は問う。
「最悪だ」
正直に答えると、男は笑ったようだった。バックミラーを見ると、薄い色のサングラスの奥でひどく優しい目をしていた。
ぼんやりバックミラーを見ていると、男がひょいと何かを放った。慌てて受け取ったそれは携帯灰皿だった。煙草は未だ赤くくすぶっている。その先端の灰がこぼれる前に、蓋を開けて灰皿の中に落とした。小さな音は車の稼働音に飲み込まれ、おそろしく小さく聞こえた。半分以上残っていた煙草も同じように、火を潰してから灰皿に捨てた。オレンジがかった赤色は真っ暗な灰皿の中で明るく光っていたが、それもすぐに収まる。後に残るのは黒色だけだった。
灰皿の蓋を閉め、横に置く。煙草の箱を開けっ放しにしていたことに気付いて閉めたが、また開けた。一本取り出し、火をつけないまま銜えた。
力を抜いて、シートに体を委ねた。今まで忘れていたはずの頬の痛みが今更のように襲ってきた。そう痛くもないはずなのに、泣きたい気分になった。
もう一度、言われたとおりに火を近づけて炙りながら息を吸う。今度は咳き込まなかった。嗅ぎ慣れた匂いがした。運転席の男の匂いだった。
時速百キロで流れていく景色は光が尾を引いていた。ネオンの輝きが目に痛い。ガラスに映った少年の顔は不機嫌そうだった。頬にガーゼを貼った少年は、まぎれもない自分自身だった。癖の強い髪は顔の横辺りだけ少し長い。横髪を掻き上げ耳を露出させると、白い耳たぶに小さな穴が開いていた。数ヶ月前に開けたピアス穴は、日々塞がっていく。
やりきれない気分だった。ガラスから顔を背けると、自分の横にライターと煙草の箱が置かれているのに気付いた。運転席の男が放ったのかもしれない。黒地に緑のラインが入った煙草だ。健康に悪いのだというメッセージが奇妙に明るく浮かんでいた。過ぎ去った街灯が一瞬だけ車内を照らした。パッケージのセロハンが真っ白に光ってまた真っ黒に戻った。
手を伸ばした。黒い箱は軽かった。蓋をあけようとする指が震えていた。小さく舌打ちをして、その震えを見なかったことにした。ことさらゆっくりとした動作で一本取りだし、口に銜えた。かちかちと音をたててライターに火をともす。車内の空調で小さな火はゆらゆら揺れた。口に銜えた煙草に火を近づけ、炙る。
「そうじゃない」
今まで黙っていた、運転席の男の声だった。驚きに手からライターが落ちそうになった。咎められるだろうか、という気まずい思いと、何故いきなりこんなことをしてしまったのかという罪悪感がよぎった。
だが、運転席の男は叱るでもなく、バックミラーで少年を見ながら淡々とした声で続けた。
「炙るだけじゃダメなんだ。それだと不味くなる」
「…………」
「銜えて……ライター近づけて、火ィつけて、そう、息を吸う」
いつも男がしているように中指と薬指で煙草を挟み、先端に火を近づけた。揺れるライターの火は空調のせいだけではない。吸った息には煙草の匂いが混ざっていた。喉を突く煙の感触と、舌を刺激する甘い香り。吸ったのは一瞬で、すぐに口から離して咳き込んだ。喉の奥が痛んだ。
指に挟んだ煙草からは、白い煙があがっている。
「初めての煙草はどうだ?」
咳き込む少年をからかうでもなく、運転席の男は問う。
「最悪だ」
正直に答えると、男は笑ったようだった。バックミラーを見ると、薄い色のサングラスの奥でひどく優しい目をしていた。
ぼんやりバックミラーを見ていると、男がひょいと何かを放った。慌てて受け取ったそれは携帯灰皿だった。煙草は未だ赤くくすぶっている。その先端の灰がこぼれる前に、蓋を開けて灰皿の中に落とした。小さな音は車の稼働音に飲み込まれ、おそろしく小さく聞こえた。半分以上残っていた煙草も同じように、火を潰してから灰皿に捨てた。オレンジがかった赤色は真っ暗な灰皿の中で明るく光っていたが、それもすぐに収まる。後に残るのは黒色だけだった。
灰皿の蓋を閉め、横に置く。煙草の箱を開けっ放しにしていたことに気付いて閉めたが、また開けた。一本取り出し、火をつけないまま銜えた。
力を抜いて、シートに体を委ねた。今まで忘れていたはずの頬の痛みが今更のように襲ってきた。そう痛くもないはずなのに、泣きたい気分になった。
もう一度、言われたとおりに火を近づけて炙りながら息を吸う。今度は咳き込まなかった。嗅ぎ慣れた匂いがした。運転席の男の匂いだった。
・もうなにもいりません。
・「悠々自適だな」
「フリをしているだけさ」
・振り返る先に、
・あの声が聞こえた。
・花で満たされた棺桶から見えた顔は穏やかだった。
・約束を果たしに来たよ。
・「悠々自適だな」
「フリをしているだけさ」
・振り返る先に、
・あの声が聞こえた。
・花で満たされた棺桶から見えた顔は穏やかだった。
・約束を果たしに来たよ。
コンビニで買ったチョコレートと紅茶を片手に階段を上る。四階までひたすら足を動かす。夏野はエレベーターが嫌いだ。暑さと体のだるさに耐えながら、ただただ足を動かし上を目指す。頭の中を空っぽにする。
打ちっ放しのコンクリートは部屋の中まで続く。四階の一番奥、通い慣れた部屋のドアを開けると、やはり同じような灰色のコンクリートが広がっていた。違うのは体感温度で、エアコンで冷やされた空気が剥き出しの肌を撫でた。ローファーを脱いだフローリングもやはり冷たい。僅かに開いたリビングの冷気が玄関まで届いているのだ。脱いだ靴を揃えようとして、そこに家主以外の靴があることに気付いて手を止めた。女物の、シンプルなパンプスだった。どうやら客がいるらしかった。
客がいる中に行くのもどうかと考え、もう一度ローファーに足を入れようとしたところで、リビングから声がかかった。
「夏野」
家主だった。
ためらったのはほんの二、三秒で、夏野は半分履いていたローファーから足を抜いた。短く息を吐き、リビングに入る。高い天井と同じ高さの窓から差し込む日差しで眩しい部屋は灰色と、調度品のモノクロばかりが目立った。脇に置かれた観葉植物の色が霞んだ部屋の中心には黒いソファーが向かい合って置かれ、右側には家主が、左側には見知らぬ女性が座っていた。
暑い夏の日にも関わらず、座っている女性はダークグレーのスーツを着込んでいた。ウェーブがかった髪は地毛なのか否か、チョコレートを思わせる色をしていた。そこで手にしていたコンビニの袋の中身を思い出した。チョコレートは溶けていないだろうか。
女性と目が合った夏野は慌てて頭を下げた。女性もまた、にっこり笑って頭を下げた。人好きのする笑顔だった。