二瓶が物珍しそうに指でつまんでいる物を見て、八坂は文字通り頭を抱えた。
「二瓶さん! それ子猫じゃないですか!」
「ああ、猫だ。小さいな」
「なんで子猫つまんでるんですか」
「拾った」
答えるように子猫が、みい、ともにい、ともつかない鳴き声を上げた。薄汚れた子猫は生まれて日が経っていないようで、手のひらに載るほど小さい。二瓶はそれを目の高さまで上げると、会話をするようににゃあ、と猫のまねをした。
「どうするつもりなんです」
「さてどうしようか」
「飼いますか」
「捨ててこようか」
「かわいそうじゃないですか」
「そうか、なら飼うか」
「本当に何も考えてませんね二瓶さん」
また子猫が鳴く。相変わらず二瓶はつまんでいる。子猫の尻尾がふわりふわりと揺れていた。
「とりあえず二瓶さん、猫こっちにください。汚れくらい拭きましょう」
一瞬拗ねたような顔をされたが、八坂の無言の圧力に二瓶は結局子猫を手放した。外見通りの軽さで手のひらに載った子猫は不思議そうに辺りを見回し、ハンカチを取り出した八坂の手から降りようとする。それをとどめようとしたところで、また二瓶が猫をつまんだ。
「……二瓶さん」
「なんだ」
「猫、好きなんですか」
「さて、何の話かな」
「二瓶さん! それ子猫じゃないですか!」
「ああ、猫だ。小さいな」
「なんで子猫つまんでるんですか」
「拾った」
答えるように子猫が、みい、ともにい、ともつかない鳴き声を上げた。薄汚れた子猫は生まれて日が経っていないようで、手のひらに載るほど小さい。二瓶はそれを目の高さまで上げると、会話をするようににゃあ、と猫のまねをした。
「どうするつもりなんです」
「さてどうしようか」
「飼いますか」
「捨ててこようか」
「かわいそうじゃないですか」
「そうか、なら飼うか」
「本当に何も考えてませんね二瓶さん」
また子猫が鳴く。相変わらず二瓶はつまんでいる。子猫の尻尾がふわりふわりと揺れていた。
「とりあえず二瓶さん、猫こっちにください。汚れくらい拭きましょう」
一瞬拗ねたような顔をされたが、八坂の無言の圧力に二瓶は結局子猫を手放した。外見通りの軽さで手のひらに載った子猫は不思議そうに辺りを見回し、ハンカチを取り出した八坂の手から降りようとする。それをとどめようとしたところで、また二瓶が猫をつまんだ。
「……二瓶さん」
「なんだ」
「猫、好きなんですか」
「さて、何の話かな」
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二瓶は悪夢喰いだ。
悪夢喰いが一体何であるのか、八坂にはおおよそのことしか分からない。彼は神出鬼没である。喪服のような黒いスリーピースのスーツを着て、金色のタイピンをつけた男は、悪夢を見た者の元へ現れたかと思うとふらりと消える。悪夢を見た者の頭から、黒い奇妙な何かを掴み出して。
「私が何者かなど、知ろうが知るまいが問題はないだろう」
夜明けが近づく中、彼は言った。外した手袋を元通りに填め、八坂の横に座っていた。
彼が八坂の元に現れたのはだいぶ昔のことだ。八坂はよく悪夢を見る。幼い頃、怖い夢を見たと一人泣いている時、彼は唐突に現れた。今と同じように八坂は彼の手を掴み、彼は苦笑しながら片手で頭を撫でた。そしてゆっくりと黒い何かを頭から引きずり出しそれを喰った。得体の知れないものが何者か分からない誰かに目の前で喰われていくことに、幼い八坂は不思議と安心感を得た。それは今も変わらず、彼が悪夢を喰ってくれた後は、凪いだ海のように穏やかな気分になる。
今と昔の八坂の違うところと言えば、彼が黒い何かを食べるその場面を見なくなったことだろうか。
「・・・あの黒いの」
「うん?」
「あれって、おいしいんですか」
悪夢が形をなしたものだというあの黒い何かを食べる二瓶は、しかし微妙な顔をした。
「味、という概念はないな。そもそも悪夢なんてものが美味かったらやりきれない気分にならないか」
「それはそうですけど。じゃあなんで二瓶さんは食べるんですか」
「決まっているだろう。私は悪夢喰いだからだ」
至極当然なことを二瓶は言い、その視線を窓に向けた。カーテンの隙間からのぞく空は既に白み始めている。
「もうこんな時間か」
スプリングが軋み、二瓶が立ち上がる。つられて八坂も上体を上げた。彼はタイピンを軽くいじったかと思うと、いつものように、
「ではな」
「はい、それでは」
その一言を残してふわりと消えた。
悪夢喰いが一体何であるのか、八坂にはおおよそのことしか分からない。彼は神出鬼没である。喪服のような黒いスリーピースのスーツを着て、金色のタイピンをつけた男は、悪夢を見た者の元へ現れたかと思うとふらりと消える。悪夢を見た者の頭から、黒い奇妙な何かを掴み出して。
「私が何者かなど、知ろうが知るまいが問題はないだろう」
夜明けが近づく中、彼は言った。外した手袋を元通りに填め、八坂の横に座っていた。
彼が八坂の元に現れたのはだいぶ昔のことだ。八坂はよく悪夢を見る。幼い頃、怖い夢を見たと一人泣いている時、彼は唐突に現れた。今と同じように八坂は彼の手を掴み、彼は苦笑しながら片手で頭を撫でた。そしてゆっくりと黒い何かを頭から引きずり出しそれを喰った。得体の知れないものが何者か分からない誰かに目の前で喰われていくことに、幼い八坂は不思議と安心感を得た。それは今も変わらず、彼が悪夢を喰ってくれた後は、凪いだ海のように穏やかな気分になる。
今と昔の八坂の違うところと言えば、彼が黒い何かを食べるその場面を見なくなったことだろうか。
「・・・あの黒いの」
「うん?」
「あれって、おいしいんですか」
悪夢が形をなしたものだというあの黒い何かを食べる二瓶は、しかし微妙な顔をした。
「味、という概念はないな。そもそも悪夢なんてものが美味かったらやりきれない気分にならないか」
「それはそうですけど。じゃあなんで二瓶さんは食べるんですか」
「決まっているだろう。私は悪夢喰いだからだ」
至極当然なことを二瓶は言い、その視線を窓に向けた。カーテンの隙間からのぞく空は既に白み始めている。
「もうこんな時間か」
スプリングが軋み、二瓶が立ち上がる。つられて八坂も上体を上げた。彼はタイピンを軽くいじったかと思うと、いつものように、
「ではな」
「はい、それでは」
その一言を残してふわりと消えた。
体の端からだんだんと食われていく夢を見た。
起きてなお体に残る、貪り食われる感覚に吐き気を催した。荒い息を押さえようとベッドの中で体を丸め、口を押さえた。生理的な涙が目から溢れてシーツに落ちる。体がかたかたと震えていた。
指先からじわじわと這い上がってくる舌や、骨を囓り砕く音が、体験したこともないのに妙にリアルに響いていた。夢の中で食われていた八坂は、しかし、そのことに一切痛みを感じていなかった。むしろそれが、八坂の精神に効いたのかもしれなかった。感覚無しに自分の体が無くなっていく様を見続ける、とんでもない悪夢だった。
毛布の中からなんとか顔を出し、部屋の中に視線を巡らせる。壁に掛かった時計は朝の三時を過ぎたことを知らせていた。その時計の下に、男が立っていた。
「にへい、さん」
暗がりに溶けるような黒いスリーピースのスーツの中で、金色のタイピンが輝いている。いつも手にしている黒いアタッシュケースは今は無い。そこにいるのかいないのか、存在感がまるで感じられない男は、不思議なほど穏やかな目で八坂を見ていた。
たすけてくださいと、絞り出すように小さな声は確かに男に届いたようだった。二瓶は苦笑を一つ、八坂のベッドへ近付いた。すがりつくように伸ばした八坂の手を、手袋に包まれた手が握る。手袋越しにヒトより低い体温が伝わってきて、それがひどく心地よかった。
「仕方ないな」
片手の手袋を口で取り、二瓶はそっと囁いた。
「そんなに恐ろしければ、目を背けるという選択肢もあるんだぞ」
手袋に包まれていない手がなだめるように髪を撫で、同時にずるり、と奇妙な黒い何かを掴む。確かな形を持たないそれは八坂の頭から引きずり出され、彼の手の中で悶え苦しんでいた。
八坂は静かに目を閉じた。二瓶の片手を強く握りしめ、更に体を小さく丸める。悪夢喰いが悪夢の残滓を喰う。自分を助けてくれる行為だというのに、それすら恐ろしく感じた自分を心の中で嘲笑う。恐ろしければ目を背けるという選択肢もある。悪夢喰いが悪夢を咀嚼する音がする。ごめんなさい、二瓶さん。唇だけを動かした謝罪は午前三時の薄闇に溶けて消えた。
起きてなお体に残る、貪り食われる感覚に吐き気を催した。荒い息を押さえようとベッドの中で体を丸め、口を押さえた。生理的な涙が目から溢れてシーツに落ちる。体がかたかたと震えていた。
指先からじわじわと這い上がってくる舌や、骨を囓り砕く音が、体験したこともないのに妙にリアルに響いていた。夢の中で食われていた八坂は、しかし、そのことに一切痛みを感じていなかった。むしろそれが、八坂の精神に効いたのかもしれなかった。感覚無しに自分の体が無くなっていく様を見続ける、とんでもない悪夢だった。
毛布の中からなんとか顔を出し、部屋の中に視線を巡らせる。壁に掛かった時計は朝の三時を過ぎたことを知らせていた。その時計の下に、男が立っていた。
「にへい、さん」
暗がりに溶けるような黒いスリーピースのスーツの中で、金色のタイピンが輝いている。いつも手にしている黒いアタッシュケースは今は無い。そこにいるのかいないのか、存在感がまるで感じられない男は、不思議なほど穏やかな目で八坂を見ていた。
たすけてくださいと、絞り出すように小さな声は確かに男に届いたようだった。二瓶は苦笑を一つ、八坂のベッドへ近付いた。すがりつくように伸ばした八坂の手を、手袋に包まれた手が握る。手袋越しにヒトより低い体温が伝わってきて、それがひどく心地よかった。
「仕方ないな」
片手の手袋を口で取り、二瓶はそっと囁いた。
「そんなに恐ろしければ、目を背けるという選択肢もあるんだぞ」
手袋に包まれていない手がなだめるように髪を撫で、同時にずるり、と奇妙な黒い何かを掴む。確かな形を持たないそれは八坂の頭から引きずり出され、彼の手の中で悶え苦しんでいた。
八坂は静かに目を閉じた。二瓶の片手を強く握りしめ、更に体を小さく丸める。悪夢喰いが悪夢の残滓を喰う。自分を助けてくれる行為だというのに、それすら恐ろしく感じた自分を心の中で嘲笑う。恐ろしければ目を背けるという選択肢もある。悪夢喰いが悪夢を咀嚼する音がする。ごめんなさい、二瓶さん。唇だけを動かした謝罪は午前三時の薄闇に溶けて消えた。