あたしの目の前で缶のプルタブを開ける、その手が好き。
「どうぞ」
「ん」
クリームソーダ色の爪。せっかく塗ったネイルが剥がれないようにと、彼は静かに笑ってプルタブを開けてくれた。恥ずかしいような嬉しいような気持ちでいっぱいになって、言葉少なに受け取りそっと口を付ける。温かいカフェオレはいつもより甘い気がした。
彼も温かい飲み物を選んだけれど、それはあたしとは違う、ブラックコーヒーだった。苦い香りが隣のあたしにまで届いてくる。普段は甘党なのに、ブラックコーヒーなのが不思議だった。
「ね、なんでブラックなの?」
するりと口からでた疑問は、彼を困らせたようだ。言葉を探すように視線が泳ぐ。答えにくい事情があるのかと思ったけれど、そういうわけではないみたいだ。
「昔は、男で甘党なのが恥ずかしかったから、我慢してブラックに近いのを飲んでた。確か中学生くらいの頃」
「若いねー」
「俺はまだ若いよ」
茶化すと、やはり困ったように笑って見せた。
「でも、今は? 普通に甘党のままでしょ」
「甘党だな。なんでだろ。分からない」
結構真剣に悩み始めたので、慌てて止めた。
「別に良いよ、真剣に考えなくて」
「そう?」
小さく首を傾げて、彼はコーヒーに口を付けた。あたしは缶を握りしめて暖をとる。北風が冷たい。マフラーに口元を埋めると、カフェオレの香りがした。
「さむーい」
「寒いな。今日は雪が降るかも。電車止まるかな」
「考えることが現実的すぎるよ」
「俺はリアリストなんです」
「嘘つき」
ふざけ半分で彼のマフラーを引っ張ると、予想以上に体が傾き彼の顔が近くなった。
あ、ブラックコーヒーの香り。
「・・・・・・あたしもブラックコーヒー、飲んでみようかな」
「ん?」
あたしの唐突な呟きに、彼は不思議そうな顔をした。なんでもないとごまかしてマフラーを離した。コーヒーの香りは冷たい風に吹かれてあっさりと消えてしまう。名残惜しい気分を無理矢理カフェオレと一緒に飲み込んだ。その横で平然とノンシュガーの、彼。
クリームソーダ色の爪を見る。明日は彼のような、ブラックコーヒーのような、そんな黒にしてみようか。
「ねえねえ、明日、マニキュア塗って。黒いの」
「俺が?」
「あたしの爪を塗るの。ずっと前やってくれたでしょ」
「俺、そんなに上手くないぞ。知ってるだろ」
「良いの、見てるこっちは楽しいから」
そういえば、小さい頃はブラックコーヒーを飲める人は大人に見えていた。けれど実際はそんなことなどないのだ。あたしはまだ苦いコーヒーは飲めない。
けれど、そういう意味でなら彼は大人なんだろう。じゃあ、あたしは子供のままで良いや。
「失敗しても知らないからな」
小さくため息をつく彼は、やはりブラックコーヒーの香りがした。
・成人前後のイメージ。
・女の子一人称。
・真冬。
「どうぞ」
「ん」
クリームソーダ色の爪。せっかく塗ったネイルが剥がれないようにと、彼は静かに笑ってプルタブを開けてくれた。恥ずかしいような嬉しいような気持ちでいっぱいになって、言葉少なに受け取りそっと口を付ける。温かいカフェオレはいつもより甘い気がした。
彼も温かい飲み物を選んだけれど、それはあたしとは違う、ブラックコーヒーだった。苦い香りが隣のあたしにまで届いてくる。普段は甘党なのに、ブラックコーヒーなのが不思議だった。
「ね、なんでブラックなの?」
するりと口からでた疑問は、彼を困らせたようだ。言葉を探すように視線が泳ぐ。答えにくい事情があるのかと思ったけれど、そういうわけではないみたいだ。
「昔は、男で甘党なのが恥ずかしかったから、我慢してブラックに近いのを飲んでた。確か中学生くらいの頃」
「若いねー」
「俺はまだ若いよ」
茶化すと、やはり困ったように笑って見せた。
「でも、今は? 普通に甘党のままでしょ」
「甘党だな。なんでだろ。分からない」
結構真剣に悩み始めたので、慌てて止めた。
「別に良いよ、真剣に考えなくて」
「そう?」
小さく首を傾げて、彼はコーヒーに口を付けた。あたしは缶を握りしめて暖をとる。北風が冷たい。マフラーに口元を埋めると、カフェオレの香りがした。
「さむーい」
「寒いな。今日は雪が降るかも。電車止まるかな」
「考えることが現実的すぎるよ」
「俺はリアリストなんです」
「嘘つき」
ふざけ半分で彼のマフラーを引っ張ると、予想以上に体が傾き彼の顔が近くなった。
あ、ブラックコーヒーの香り。
「・・・・・・あたしもブラックコーヒー、飲んでみようかな」
「ん?」
あたしの唐突な呟きに、彼は不思議そうな顔をした。なんでもないとごまかしてマフラーを離した。コーヒーの香りは冷たい風に吹かれてあっさりと消えてしまう。名残惜しい気分を無理矢理カフェオレと一緒に飲み込んだ。その横で平然とノンシュガーの、彼。
クリームソーダ色の爪を見る。明日は彼のような、ブラックコーヒーのような、そんな黒にしてみようか。
「ねえねえ、明日、マニキュア塗って。黒いの」
「俺が?」
「あたしの爪を塗るの。ずっと前やってくれたでしょ」
「俺、そんなに上手くないぞ。知ってるだろ」
「良いの、見てるこっちは楽しいから」
そういえば、小さい頃はブラックコーヒーを飲める人は大人に見えていた。けれど実際はそんなことなどないのだ。あたしはまだ苦いコーヒーは飲めない。
けれど、そういう意味でなら彼は大人なんだろう。じゃあ、あたしは子供のままで良いや。
「失敗しても知らないからな」
小さくため息をつく彼は、やはりブラックコーヒーの香りがした。
・成人前後のイメージ。
・女の子一人称。
・真冬。
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退屈なら死んでも良いというのが綺堂の口癖だ。
「やることないなあ」
その綺堂は今、黒崎の目の前でアップルパイを解体していた。フォーク一本で器用にパイ生地をどんどんとはがしていくのは見物だったが、しかし褒められた行為ではない。甘い色のリンゴが現れたところで、黒崎はそのリンゴが解体の憂き目に遭う前に自分のフォークで突き刺した。憮然とした表情になった綺堂を無視して口に放る。
「ひどい、私の」
「知ってる」
仕返しとばかりに、綺堂のフォークが黒崎のガトーショコラに伸びてきた。解体、あるいは突き刺される前に皿を持ち上げ救出する。綺堂の期限が目に見えて悪くなった。
平日の午後、ランチタイムを過ぎた喫茶店にはどことなくけだるげな空気が漂っていた。店内に流れるフレンチポップの甘さが、更にそうさせているのかもしれない。談笑よりも本や新聞をめくる音の方が耳によく届いた。カウンターの向こうにいるはずの店員は、今は奥に行ってしまったようで姿が見えなかった。
黒崎への反撃を諦めたのか、綺堂は不機嫌そうなままフォークを置いた。
「ねえクロちゃん、私、暇なんだけど」
「俺はそうでもない」
「そればっかり!」
「だって俺、暇なの好きだし。忙しいのやだ」
「忙しい方が良いじゃない、だって、暇だと死んじゃいそう」
「暇で死んだ人はきっといないよ」
「絶対いる」
「いないって」
意味のない言い争いを続けながら冷めかけたコーヒーを口にする。シュガースティック半分の砂糖が入ったコーヒーは、まだ苦いとしか感じられない。
向かい側に座る綺堂は、自分のアイスティーにシロップとミルクをどちらも二個ずつ入れていた。甘過ぎじゃないかと思ったが、彼女はそれでちょうど良いらしかった。
黒崎の視線に気づいた綺堂が、ようやくいつもの表情に戻った。その目には、無邪気ないたずらっ子の笑みが浮かんでいた。
「無理しないで、砂糖全部入れちゃえば良いじゃない」
「これで十分だよ」
「うそつき。甘党のくせに」
「きーちゃんほどじゃないし。あと、ブラックコーヒー飲めるようになりたい」
「どうして? 甘いのじゃ駄目なの?」
今度は、黒崎が不機嫌になる番だった。別に良いじゃないか理由なんて、と早口でまくしたて、コーヒーを啜る。しかし綺堂はそれで話を終わらせるつもりはないらしく、どうしてどうして、と体を乗り出してくる。それを徹底的に無視していると、やがてテーブルの下で綺堂の足が黒崎の足を踏み始めた。
「や、止めろよ。制服汚れるじゃん」
「私は気にしないもん」
「俺は気にする」
「じゃあ私も、クロちゃんがブラックコーヒー飲む理由を気にする」
「何それ、ひどいじゃないか」
「ひどくないよ」
しばらくひどい、ひどくないと意味のない言い争いを続け、ついでにテーブルの下で攻防戦を繰り広げ、黒崎のコーヒーが完全に冷める頃になってようやく二人は言い争いと攻防戦を止めた。
どういう訳か勝ち誇ったような表情の綺堂が、数分前の話題をまた蒸し返す。
「それで、どうしてブラックコーヒーなの」
アイスティーの氷がからからと音を立てる。自分でも分かるほど機嫌の悪そうな顔で、黒崎は小さく答えた。
「だって俺、男だし。甘党だとおかしいじゃん。だからコーヒーぐらいは砂糖なしで飲めるようになりたい」
それを聞いて綺堂は笑うのではないかと黒崎は思っていたが、しかし綺堂は笑うどころか、悲しそうな顔をした。
「えー、甘党のままでいてよクロちゃん」
「なんで」
「だって、クロちゃん甘いもの食べなくなったらつまんない。一緒に喫茶店来ても楽しくないよ」
だから甘党のままでいてよ、と綺堂は言う。
「そんで、いつか一緒にケーキバイキング行こう」
どう反応するべきか迷う黒崎を知ってか知らずか、綺堂はアイスティーを飲み干し、解体していたアップルパイを食べ始めた。なんとなく黒崎も、ガトーショコラにフォークを刺す。綺堂の言葉を脳内で消化しながらガトーショコラを口に運ぶと、チョコレートの甘さが残っていたコーヒーの苦さと混じりあって不思議な味がした。
目の前の綺堂はさっさと自分の分のアップルパイを食べ終えていた。
「ねえクロちゃん、前言撤回。暇だから今から行こう、ケーキバイキング」
「へ?」
「この辺あったでしょ」
「いや、あったはずだけど。ていうかこの格好で? しかも俺、今月のお小遣いヤバい」
「私もヤバいよ!」
「駄目じゃん!」
「えーい気にしない。もーらいっ」
「あっ」
自分の詰め襟の学制服と財布の軽さを嘆く黒崎の目の前からガトーショコラが消えた。綺堂が隙をついて奪ったのだ。黒崎の手が伸びる前に、それは綺堂の口の中に消えてしまった。
「ひどい、俺の」
「知ってる」
少し前会話をそのまま再現した自分達に呆れながら、黒崎はため息をついた。そして、コーヒーを一気に飲み干す。それを確認した綺堂はさっさと会計に向かう。慌てて鞄をつかみ、その背中を追いかけた。
口中に広がった苦みは、まだ慣れない。
まあ良いか、と黒崎は思った。
・14歳くらいがイメージ。
・きーちゃんとクロちゃん呼びだった頃。
「やることないなあ」
その綺堂は今、黒崎の目の前でアップルパイを解体していた。フォーク一本で器用にパイ生地をどんどんとはがしていくのは見物だったが、しかし褒められた行為ではない。甘い色のリンゴが現れたところで、黒崎はそのリンゴが解体の憂き目に遭う前に自分のフォークで突き刺した。憮然とした表情になった綺堂を無視して口に放る。
「ひどい、私の」
「知ってる」
仕返しとばかりに、綺堂のフォークが黒崎のガトーショコラに伸びてきた。解体、あるいは突き刺される前に皿を持ち上げ救出する。綺堂の期限が目に見えて悪くなった。
平日の午後、ランチタイムを過ぎた喫茶店にはどことなくけだるげな空気が漂っていた。店内に流れるフレンチポップの甘さが、更にそうさせているのかもしれない。談笑よりも本や新聞をめくる音の方が耳によく届いた。カウンターの向こうにいるはずの店員は、今は奥に行ってしまったようで姿が見えなかった。
黒崎への反撃を諦めたのか、綺堂は不機嫌そうなままフォークを置いた。
「ねえクロちゃん、私、暇なんだけど」
「俺はそうでもない」
「そればっかり!」
「だって俺、暇なの好きだし。忙しいのやだ」
「忙しい方が良いじゃない、だって、暇だと死んじゃいそう」
「暇で死んだ人はきっといないよ」
「絶対いる」
「いないって」
意味のない言い争いを続けながら冷めかけたコーヒーを口にする。シュガースティック半分の砂糖が入ったコーヒーは、まだ苦いとしか感じられない。
向かい側に座る綺堂は、自分のアイスティーにシロップとミルクをどちらも二個ずつ入れていた。甘過ぎじゃないかと思ったが、彼女はそれでちょうど良いらしかった。
黒崎の視線に気づいた綺堂が、ようやくいつもの表情に戻った。その目には、無邪気ないたずらっ子の笑みが浮かんでいた。
「無理しないで、砂糖全部入れちゃえば良いじゃない」
「これで十分だよ」
「うそつき。甘党のくせに」
「きーちゃんほどじゃないし。あと、ブラックコーヒー飲めるようになりたい」
「どうして? 甘いのじゃ駄目なの?」
今度は、黒崎が不機嫌になる番だった。別に良いじゃないか理由なんて、と早口でまくしたて、コーヒーを啜る。しかし綺堂はそれで話を終わらせるつもりはないらしく、どうしてどうして、と体を乗り出してくる。それを徹底的に無視していると、やがてテーブルの下で綺堂の足が黒崎の足を踏み始めた。
「や、止めろよ。制服汚れるじゃん」
「私は気にしないもん」
「俺は気にする」
「じゃあ私も、クロちゃんがブラックコーヒー飲む理由を気にする」
「何それ、ひどいじゃないか」
「ひどくないよ」
しばらくひどい、ひどくないと意味のない言い争いを続け、ついでにテーブルの下で攻防戦を繰り広げ、黒崎のコーヒーが完全に冷める頃になってようやく二人は言い争いと攻防戦を止めた。
どういう訳か勝ち誇ったような表情の綺堂が、数分前の話題をまた蒸し返す。
「それで、どうしてブラックコーヒーなの」
アイスティーの氷がからからと音を立てる。自分でも分かるほど機嫌の悪そうな顔で、黒崎は小さく答えた。
「だって俺、男だし。甘党だとおかしいじゃん。だからコーヒーぐらいは砂糖なしで飲めるようになりたい」
それを聞いて綺堂は笑うのではないかと黒崎は思っていたが、しかし綺堂は笑うどころか、悲しそうな顔をした。
「えー、甘党のままでいてよクロちゃん」
「なんで」
「だって、クロちゃん甘いもの食べなくなったらつまんない。一緒に喫茶店来ても楽しくないよ」
だから甘党のままでいてよ、と綺堂は言う。
「そんで、いつか一緒にケーキバイキング行こう」
どう反応するべきか迷う黒崎を知ってか知らずか、綺堂はアイスティーを飲み干し、解体していたアップルパイを食べ始めた。なんとなく黒崎も、ガトーショコラにフォークを刺す。綺堂の言葉を脳内で消化しながらガトーショコラを口に運ぶと、チョコレートの甘さが残っていたコーヒーの苦さと混じりあって不思議な味がした。
目の前の綺堂はさっさと自分の分のアップルパイを食べ終えていた。
「ねえクロちゃん、前言撤回。暇だから今から行こう、ケーキバイキング」
「へ?」
「この辺あったでしょ」
「いや、あったはずだけど。ていうかこの格好で? しかも俺、今月のお小遣いヤバい」
「私もヤバいよ!」
「駄目じゃん!」
「えーい気にしない。もーらいっ」
「あっ」
自分の詰め襟の学制服と財布の軽さを嘆く黒崎の目の前からガトーショコラが消えた。綺堂が隙をついて奪ったのだ。黒崎の手が伸びる前に、それは綺堂の口の中に消えてしまった。
「ひどい、俺の」
「知ってる」
少し前会話をそのまま再現した自分達に呆れながら、黒崎はため息をついた。そして、コーヒーを一気に飲み干す。それを確認した綺堂はさっさと会計に向かう。慌てて鞄をつかみ、その背中を追いかけた。
口中に広がった苦みは、まだ慣れない。
まあ良いか、と黒崎は思った。
・14歳くらいがイメージ。
・きーちゃんとクロちゃん呼びだった頃。
二瓶は悪夢喰いだ。
悪夢喰いが一体何であるのか、八坂にはおおよそのことしか分からない。彼は神出鬼没である。喪服のような黒いスリーピースのスーツを着て、金色のタイピンをつけた男は、悪夢を見た者の元へ現れたかと思うとふらりと消える。悪夢を見た者の頭から、黒い奇妙な何かを掴み出して。
「私が何者かなど、知ろうが知るまいが問題はないだろう」
夜明けが近づく中、彼は言った。外した手袋を元通りに填め、八坂の横に座っていた。
彼が八坂の元に現れたのはだいぶ昔のことだ。八坂はよく悪夢を見る。幼い頃、怖い夢を見たと一人泣いている時、彼は唐突に現れた。今と同じように八坂は彼の手を掴み、彼は苦笑しながら片手で頭を撫でた。そしてゆっくりと黒い何かを頭から引きずり出しそれを喰った。得体の知れないものが何者か分からない誰かに目の前で喰われていくことに、幼い八坂は不思議と安心感を得た。それは今も変わらず、彼が悪夢を喰ってくれた後は、凪いだ海のように穏やかな気分になる。
今と昔の八坂の違うところと言えば、彼が黒い何かを食べるその場面を見なくなったことだろうか。
「・・・あの黒いの」
「うん?」
「あれって、おいしいんですか」
悪夢が形をなしたものだというあの黒い何かを食べる二瓶は、しかし微妙な顔をした。
「味、という概念はないな。そもそも悪夢なんてものが美味かったらやりきれない気分にならないか」
「それはそうですけど。じゃあなんで二瓶さんは食べるんですか」
「決まっているだろう。私は悪夢喰いだからだ」
至極当然なことを二瓶は言い、その視線を窓に向けた。カーテンの隙間からのぞく空は既に白み始めている。
「もうこんな時間か」
スプリングが軋み、二瓶が立ち上がる。つられて八坂も上体を上げた。彼はタイピンを軽くいじったかと思うと、いつものように、
「ではな」
「はい、それでは」
その一言を残してふわりと消えた。
悪夢喰いが一体何であるのか、八坂にはおおよそのことしか分からない。彼は神出鬼没である。喪服のような黒いスリーピースのスーツを着て、金色のタイピンをつけた男は、悪夢を見た者の元へ現れたかと思うとふらりと消える。悪夢を見た者の頭から、黒い奇妙な何かを掴み出して。
「私が何者かなど、知ろうが知るまいが問題はないだろう」
夜明けが近づく中、彼は言った。外した手袋を元通りに填め、八坂の横に座っていた。
彼が八坂の元に現れたのはだいぶ昔のことだ。八坂はよく悪夢を見る。幼い頃、怖い夢を見たと一人泣いている時、彼は唐突に現れた。今と同じように八坂は彼の手を掴み、彼は苦笑しながら片手で頭を撫でた。そしてゆっくりと黒い何かを頭から引きずり出しそれを喰った。得体の知れないものが何者か分からない誰かに目の前で喰われていくことに、幼い八坂は不思議と安心感を得た。それは今も変わらず、彼が悪夢を喰ってくれた後は、凪いだ海のように穏やかな気分になる。
今と昔の八坂の違うところと言えば、彼が黒い何かを食べるその場面を見なくなったことだろうか。
「・・・あの黒いの」
「うん?」
「あれって、おいしいんですか」
悪夢が形をなしたものだというあの黒い何かを食べる二瓶は、しかし微妙な顔をした。
「味、という概念はないな。そもそも悪夢なんてものが美味かったらやりきれない気分にならないか」
「それはそうですけど。じゃあなんで二瓶さんは食べるんですか」
「決まっているだろう。私は悪夢喰いだからだ」
至極当然なことを二瓶は言い、その視線を窓に向けた。カーテンの隙間からのぞく空は既に白み始めている。
「もうこんな時間か」
スプリングが軋み、二瓶が立ち上がる。つられて八坂も上体を上げた。彼はタイピンを軽くいじったかと思うと、いつものように、
「ではな」
「はい、それでは」
その一言を残してふわりと消えた。
体の端からだんだんと食われていく夢を見た。
起きてなお体に残る、貪り食われる感覚に吐き気を催した。荒い息を押さえようとベッドの中で体を丸め、口を押さえた。生理的な涙が目から溢れてシーツに落ちる。体がかたかたと震えていた。
指先からじわじわと這い上がってくる舌や、骨を囓り砕く音が、体験したこともないのに妙にリアルに響いていた。夢の中で食われていた八坂は、しかし、そのことに一切痛みを感じていなかった。むしろそれが、八坂の精神に効いたのかもしれなかった。感覚無しに自分の体が無くなっていく様を見続ける、とんでもない悪夢だった。
毛布の中からなんとか顔を出し、部屋の中に視線を巡らせる。壁に掛かった時計は朝の三時を過ぎたことを知らせていた。その時計の下に、男が立っていた。
「にへい、さん」
暗がりに溶けるような黒いスリーピースのスーツの中で、金色のタイピンが輝いている。いつも手にしている黒いアタッシュケースは今は無い。そこにいるのかいないのか、存在感がまるで感じられない男は、不思議なほど穏やかな目で八坂を見ていた。
たすけてくださいと、絞り出すように小さな声は確かに男に届いたようだった。二瓶は苦笑を一つ、八坂のベッドへ近付いた。すがりつくように伸ばした八坂の手を、手袋に包まれた手が握る。手袋越しにヒトより低い体温が伝わってきて、それがひどく心地よかった。
「仕方ないな」
片手の手袋を口で取り、二瓶はそっと囁いた。
「そんなに恐ろしければ、目を背けるという選択肢もあるんだぞ」
手袋に包まれていない手がなだめるように髪を撫で、同時にずるり、と奇妙な黒い何かを掴む。確かな形を持たないそれは八坂の頭から引きずり出され、彼の手の中で悶え苦しんでいた。
八坂は静かに目を閉じた。二瓶の片手を強く握りしめ、更に体を小さく丸める。悪夢喰いが悪夢の残滓を喰う。自分を助けてくれる行為だというのに、それすら恐ろしく感じた自分を心の中で嘲笑う。恐ろしければ目を背けるという選択肢もある。悪夢喰いが悪夢を咀嚼する音がする。ごめんなさい、二瓶さん。唇だけを動かした謝罪は午前三時の薄闇に溶けて消えた。
起きてなお体に残る、貪り食われる感覚に吐き気を催した。荒い息を押さえようとベッドの中で体を丸め、口を押さえた。生理的な涙が目から溢れてシーツに落ちる。体がかたかたと震えていた。
指先からじわじわと這い上がってくる舌や、骨を囓り砕く音が、体験したこともないのに妙にリアルに響いていた。夢の中で食われていた八坂は、しかし、そのことに一切痛みを感じていなかった。むしろそれが、八坂の精神に効いたのかもしれなかった。感覚無しに自分の体が無くなっていく様を見続ける、とんでもない悪夢だった。
毛布の中からなんとか顔を出し、部屋の中に視線を巡らせる。壁に掛かった時計は朝の三時を過ぎたことを知らせていた。その時計の下に、男が立っていた。
「にへい、さん」
暗がりに溶けるような黒いスリーピースのスーツの中で、金色のタイピンが輝いている。いつも手にしている黒いアタッシュケースは今は無い。そこにいるのかいないのか、存在感がまるで感じられない男は、不思議なほど穏やかな目で八坂を見ていた。
たすけてくださいと、絞り出すように小さな声は確かに男に届いたようだった。二瓶は苦笑を一つ、八坂のベッドへ近付いた。すがりつくように伸ばした八坂の手を、手袋に包まれた手が握る。手袋越しにヒトより低い体温が伝わってきて、それがひどく心地よかった。
「仕方ないな」
片手の手袋を口で取り、二瓶はそっと囁いた。
「そんなに恐ろしければ、目を背けるという選択肢もあるんだぞ」
手袋に包まれていない手がなだめるように髪を撫で、同時にずるり、と奇妙な黒い何かを掴む。確かな形を持たないそれは八坂の頭から引きずり出され、彼の手の中で悶え苦しんでいた。
八坂は静かに目を閉じた。二瓶の片手を強く握りしめ、更に体を小さく丸める。悪夢喰いが悪夢の残滓を喰う。自分を助けてくれる行為だというのに、それすら恐ろしく感じた自分を心の中で嘲笑う。恐ろしければ目を背けるという選択肢もある。悪夢喰いが悪夢を咀嚼する音がする。ごめんなさい、二瓶さん。唇だけを動かした謝罪は午前三時の薄闇に溶けて消えた。
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